(絵:吉田たつちか)
●小中学校9年間で1800回も集団で食べるランチ「給食」
おそらく読者の皆さんのほとんどは学校給食を経験したことがあることでしょう。学校給食は1年間で約200回、小学校6年間で1200回、中学校3年間で600回、合計1800回も集団でランチを食べるというものです。
育ち盛りの時代に食べる学校給食はその個人個人においての食生活に大きな影響を与えているに違いありません。
学童への給食のはじまりは、1796年ドイツのミュンヘンでルンフォルドという伯爵が貧しい子どもたちに地元の食堂でスープをふるまったのがはじまりとされています。
日本では明治22年山形県鶴岡町の私立忠愛小学校で、貧困児童を対象に無料で学校給食を実施する。これが我が国の学校給食の起源とされています。
ちなみにこの小学校は仏教の各宗派がお金を出し合って作ったもので、私立ですが授業料をとらず給食費もとりませんでした。ヨーロッパも日本も、給食の目的は貧しい子どもたちへの救済だったのです。
●本格的な給食は戦後から
昭和7年(1932)、昭和恐慌のあおりで栄養状態の悪い児童がたくさんいたため、日本政府が補助金を出して給食を奨励するようになりました。これが国による最初の給食です。
しかし第二次世界大変の混乱もあり、全国の児童全員に給食がいきわたることはありませんでした。
敗戦後に日本は深刻な食糧不足を迎えます。終戦直後の日本人は100万人が餓死するとさえいわれていたのです。しかし、しかし日本政府もアメリカに食糧支援を頼みますが、アメリカをはじめとするGHQ(占領軍)は最初、日本に食糧援助をする気はありませんでした。戦争に負けたおまえらが悪いというわけです。
しかしソ連や中国といった社会主義国の台頭と東西冷戦がはじまると態度が変わります。日本を取り込んでソ連や中国の太平洋上の盾となってもらうためです。
しかしアメリカはヨーロッパや日本が占領していた東南アジアにも食糧援助をしなくてはならず、日本政府が300万トンの食糧を求めても、60万トンしか輸出を認めませんでした。
このままでは日本に大量の餓死者が出てしまうと思った日本政府は、アメリカに頭を下げて家畜用の飼料を分けてもらうことにします。その中には戦後の学校給食でまずいと言われていた脱脂粉乳なども含まれていました。
学校給食が充実するようになるのは「学校給食法」が制定された昭和29年からと言われています。
●学校給食で広まったパンと牛乳
学校給食が日本の食文化に大きな影響を与えたのは、はやりパンと牛乳による食の欧米化でしょう。戦前の日本人はカロリーの8~9割をお米から得ており、栄養も偏ったものでした。
戦前日本人の白飯好きはかなりのもので、白米の多色によるビタミンB1欠乏症である脚気の原因が白米の食べすぎであることがわかった後でも日本の軍隊はビタミンB1が含まれているパン食を嫌い、白米の多食を続けていたほどです。
しかし、育ち盛りの子どもにとっては食欲を満たすことが第一。給食で日本人が嫌っていたパンを食べ、評判の悪い脱脂粉乳を飲みました。60年代には脱脂粉乳から本物の牛乳がとって代わられ、給食に出てくるシチューやカレー、フライ、パスタなど洋食が子どもたちの成長とともに広まっていきます。
農林中央金庫が昭和55年(1980)調査した『国民食生活と学校給食』によると、学校給食を食べていた時代に好きだった食べ物は、大人になってからも好きであるとの結果が出ています。学校給食は戦後日本人の味覚や好みも変えていったのかも知れません。
●先割れスプーンがお箸の使い方が悪くなった?
戦後の学校給食ではアルマイトの器やスプーンとフォークの両方を特性を備えた先割れスプーンが採用されましたが、これは「最近の子どもがお箸の使い方が下手なのは先割れスプーンのせいだ」とされ、最近では使われなくなってきましたが、はたしてそうなのでしょうか?
また70年代にはランチプレート(一枚のお皿に数か所のへこみがあり料理を分けて入れる器)が採用されるようになりましたが、これも「お皿に顔を近づけて食べる犬食いが増える」と指摘されたりしました。学校給食は味覚だけではなく、日本人のマナーにも大きな影響を与えているのかも知れません。
●変化する給食
戦後、パンと牛乳を日本に広めた学校給食ですが、昭和51年(1976)から白米食も出されるようになりました。最近では、子どもアレルギー対策や外国人の食文化への配慮など、徐々に給食も変化してきています。
また昔の給食が懐かしんで、給食メニューを提供する飲食店も出てきました。いまの子どもたちが大人になるころには、給食はどう変化しているのでしょうね。
(食文化研究家:巨椋修(おぐらおさむ))2020-03