(絵:吉田たつちか)
渋沢栄一の後継者は誰かご存知でしょうか?長男篤二ではなく、その子で、栄一の嫡孫・敬三です。そもそも、敬三は栄一からすれば、長男の長男なのになぜ、「敬三?」かと言えば、これ、「篤」と「敬」というのは、栄一が好んだ文字で、つまり、栄「一」→篤「二」→敬「三」と、普通は兄弟で横に1.2.3なのに、ここは祖父父、孫と、縦に1.2.3なんですね。もちろん、これは、確実に長男に男子ができるとわかっていたわけでもないので、結果そうなっただけの話で、事実、栄一は四男が生まれたとき、なぜか、突然、思い立って、「敬三郎」と名づけたのですが、その敬三郎は、明治18年、わずか1歳で死去。その後、長男に男子が誕生したので、捲土重来(?)とばかり、改めて、「敬三」とつけたようです。何ともいい加減な話ですよね。したがって、後年、敬三が墓参りに行くと、長い年月で、墓石から「郎」の字が消えて「渋沢敬三の墓」になっていたと。
ちなみに、敬三郎の死後、栄一に男子が誕生。仕切り直し(?)でその子を四男としていますが、この四男は、後に文筆家となり、テレビのコメンテーターにもなったことで知られる渋沢秀雄で、つまり、敬三からすると叔父になります。が、叔父と言っても4歳上でしかない。昔はよくこういうことがあったそうですね。 夏目漱石がロンドンに赴任中、娘が子供を産んだそうですが、その1週間後には彼の妻も出産。つまり、漱石の孫と子供が同級生だったということです。
敬三の運命が大きく変わったのは、父篤二が廃嫡されたことで、このとき、敬三は中学卒業の年。多感な年頃だけに、不眠症となり、結果、卒業試験のとき、問題が解けず、残り時間が少なくなったところで、教室内に敬三のすすり泣きが漏れたと。さらに酷いのが、学校側の手落ちで、落第の通知をしなかったため、敬三は卒業式に来てしまうんですね。何とも可哀そうな話です。
結局、敬三は、翌大正4年(1915年)、中学卒業と同時に、満19歳で澁澤同族株式会社の社長となり、仙台の第二高等学校に合格。敬三にとって、祖父栄一は祖父ということを超えて、本当に尊敬する人物でしたが、栄一にとっても、期待の孫だったようで、敬三が仙台に行くと、栄一は自分の仙台一の実業家の友人に「この孫は自分の子供や孫のうちでは一番出来がいい。非常に期待をかけているから、後見と訓戒を頼む」と長~い手紙を送って頼んだと。しかし、敬三は「自由民権運動の爺さんの話を聞かされても・・・」で、あまり、よりつかなかったとか。これ、まさしく、今の若者が、爺さんの学生運動の時の話に耳を貸さないのと一緒では?
(小説家 池田平太郎)2021-05