幕末、討幕を主導したことで知られる薩摩島津家の名君、島津斉彬は島津家の人であるが、同時に、徳川家康の子孫でもある。また、維新の三傑の一人、桂小五郎(木戸孝允)は徳川幕府最後の将軍・徳川慶喜を「神君家康の再来」と呼んだが、慶喜は家康の子孫であると同時に織田信長の子孫でもある。思わぬところから思わぬ人が思わぬ人に繋がる・・・。が、これは、何も偶然などではなく、それだけ、江戸時代の間に名門同士が婚姻を繰り返してきた結果ということでもある。
ちなみに、慶喜の先祖には、他にも、徳川幕府二代将軍・徳川秀忠の娘・千姫(豊臣秀吉の息子、秀頼の正室)がおり、その母は有名な浅井三姉妹の末妹・お江であるから、信長の妹・お市の方と、信長を散々に苦しめた名将・浅井長政は祖父母ということになる。(長政は、最後は信長に滅ぼされたが、もっと高い評価を受けてもいいと思う。)
また、千姫は豊臣家滅亡後、夜な夜な、道行くイケメンを次々と屋敷へ招じ入れ、殺して捨てた・・・などということを言われたが、それは、まったくの後世の作り話で、実際には、戦後まもなく、徳川四天王の一人で「家康に過ぎたるもの」と呼ばれた勇将・本多忠勝の嫡男に嫁いでおり、そこでできた娘が慶喜の先祖であるから、慶喜にとっては、家康、信長、長政、お市の方、千姫に加え、忠勝も血の繋がった先祖ということになる。
これは、何も日本に限ったことでもなく、意外に知られていないが、中国唐王朝の事実上の創始者である二代皇帝・李世民(太宗)は、自らが滅ぼした前王朝・隋の暴君・煬帝の娘を妃の一人としており、その間に出来た子は、さすがに皇帝にこそならなかったものの、唐王室の一員として遇されたから、煬帝の血統は隋滅亡後も続いていたことになる。
同じことは、古代ローマ帝国にも言え、初代皇帝アウグストゥスは政敵で最大の難敵でもあったマルクス・アントニウスを懐柔するため、たった一人の姉オクタウィアを嫁がせており(アントニウスは開戦を決意すると、この良妻を一方的に離婚、そこで再婚した相手が有名なエジプトの女王クレオパトラである。)、アントニウス敗死後、さすがのアウグストゥスも、いくら武門の習いとはいえ、自らの覇権確立に尽くしてくれたこの姉に、「子を殺せ」とは言えなかったのだろう。遺児らは、オクタウィアによって養育され(あまり知られていないが、アントニウスとクレオパトラの間に出来た子供たちも養育されている。)、結果的にではあるが、その子孫は、第四代皇帝クラウディウスと第五代皇帝ネロとなっている。
(小説家 池田平太郎)2024-10