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古代エジプトは花が落ちた蓮

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(絵:吉田たつちか)

 古代ギリシアの歴史家ヘロドトスは、「エジプトはナイルの賜」と言ったとされている。が、これは違う。「川の賜物」と言ったのである。エジプト人にとって、川はナイル川一つしかなく、一つしかないものに名前を付けて区別する必要もない・・・というわけである。(もう少し言えば、エジプト人にとって、「川」とは南から北へと流れるものでもあったから、後年、メソポタミアで北から南へ流れるユーフラテス川を見たとき、説明に困ったとか。嘘みたいな話だが、「無い」所の人にとっては、「無い」のが当たり前であって、「無い」ことを疑ったりはしない。事実、以前、「あなたの名前の意味は?」と訊かれたフィリピン人の男性は、「名前に意味⁈考えたこともなかった」と言って絶句していた。)
 さて、そのエジプトに「文明」が芽生えたのは、紀元前5,000年頃のことと言われる。文明は神話伝説の時代を経て、幾多の部族国家へと成長。やがて、部族国家同士は治乱興亡を繰り返しながら、徐々に統合され、最後は沃野が川に沿って細長く堆積したナイル川上流の「上エジプト」と、河口付近で扇形に堆積したデルタ地帯「下エジプト」という二つの国家に行きつく。そして、紀元前3,150年頃、ついに、上エジプトのナルメル王が下エジプトを軍事的に制圧、上下エジプトを統一し、通称、「第一王朝」と呼ばれる初のエジプト統一王朝を出現させる。(始皇帝により初めて中国が統一されるより、実に3,000年近く前のこと。)
 ただ、この、新たに出現した統一エジプトだが、河口付近で扇形に展開している下エジプトと、延々とナイル川に沿って細長く伸びているだけの上エジプトが合併したのだから、当然、その国土は何かの胞子のような形をしており、わかりやすく言えば、下エジプトを蓮の花が散った後の「花托」に見立てるなら、上エジプトはその下に長く伸びた「茎」のような形をしていたと言える。つまり、統一エジプトは「面」ではなく、「線」であったと言うことになる。それだけに、古代エジプトでは、ナイル川の運ぶ「黒い土」の地と、砂漠地帯の「赤い土」の地の対比は極めて明快であり、古代エジプト人にとって、黒は「命」、赤は「死」であり、彼らは自らの国を「黒い土地」と呼び、周辺の砂漠地帯を「赤い土地」と呼んだ。(「エジプト」は英語。」
 ちなみに、現代のエジプトアラブ共和国の国花はロータス。と言っても、「蓮」ではなく、「睡蓮」のようだが、エジプトにロータスが入ってきたのは、古代エジプト史にとって「終わった後の付け足し」とでも言うべき末期王朝時代のこと。つまり、古代エジプト人の多くは蓮を知らなかったということである。  

(小説家 池田平太郎)2024-12

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