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更新される文明の起源

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(絵:吉田たつちか)

 世界最古と言われるメソポタミア文明。「メソポタミア」とは、ギリシア語で「川の間」という意味で、ほぼ、現在のイラク共和国に当たる。ただ、メソポタミアは北部でこそ、農耕が可能な降水量があるが、南へ行くに従い降水量は減るため、人類が当初、定住し始めたのは北メソポタミアの方であった。が、南メソポタミアには、この地を「川の間」と呼ばせしめた西のユーフラテス川と東のティグリス川がもたらした肥沃な土壌が堆積していた。したがって、一旦、灌漑が開始されさえすれば、飛躍的に収穫は増え、増えた収穫は人々を惹きつけ、やがて、集落となり、都市へと成長していく。文明に限らず、飛躍とは何かしら、こういう、不便を克服するための一工夫が求められる所にこそ、生まれるものなのだろう。
 結果、今より7,000年前の紀元前5,000年頃にはメソポタミアにおいて人類最古のメソポタミア文明が誕生した。生まれた文明は、長い年月をかけて、沁みだすように周辺へと広まっていく。メソポタミア文明に遅れること1,000年の後、古代エジプト文明が誕生するが、その灌漑技術は本家メソポタミアより優れていたという。(第二次世界大戦後、欧米の自動車産業に学んだ日本の自動車産業が、並み居る先達を凌駕してしまったことを想起。とかく、後からできたほうが、先発組にありがちな、しがらみのようなものが無い分だけ、純粋に技術の改良だけに邁進できるのだろう。)
 もっとも、最近では、トルコ南東部で、メソポタミア文明を遥かに超える12,000年も前の、5mを超す巨大な石の建造物を擁する新石器時代の遺跡、「ギョベックリ・テペ遺跡」が発見され、歴史を書き換えようとしている。12,000年前と言えば、ようやく、氷河期が終わった頃で、これまでは、農耕が始まる前の狩猟採集の時代は、獲物を求めて移動するため、大きな建物などはなかった・・・と言われていた。しかし、彫刻が施されたレリーフや、T字型の石灰岩の柱などは、いずれも、既に、メソポタミア文明と大差ないレベルで、もはや、それが人口建造物であることを疑う余地はない。仮に、築造に動物の力を利用したとしても、少数の人間が狩猟の合間で造れるとは考えにくく、そこには、「王権」も含め、何らかの組織的協力があったと考えるほうが自然であろう。
 この遺跡を作った人々がどういう人たちで、どういう経緯の下、どういう意図があって、これを造ったのか、また、この遺跡とメソポタミア文明に何らかの関係があるかも含め、すべてはこれからの発掘を待たなければならないが、数年後の教科書がどうなっているかは興味があるところである。    

(小説家 池田平太郎)2025-04

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