相模国足柄山の奥で、山姥に育てられた金太郎という少年がいた。熊を相手に相撲をとり、大木をへし折り、まさかりを担いで山を駆け回る。並の者には真似できない膂力を持ちながら、山の中ではその力の値打ちを確かめる者も、ましてや欲しがる者もいなかった。
物語が動くのは、そこへ源頼光という京の武将が通りかかったときである。彼は金太郎の怪力に目を留め、少年を家来に取り立てた。「坂田金時」と名を改めた金太郎は、やがて頼光四天王の一角として名を残すことになる。転機は力そのものではなく、その力を見抜いたたった一人の目にあったのだ。
これを現代に読み替えると、少し苦い。私たちの社会は、誰もがなるべく公平に測れるようにと、人の力を目盛りに換算してきた。試験の点数、資格、偏差値、年収。数えられるものは重宝され、数えにくいものははじめから採点の外に置かれる。熊と取っ組み合う胆力や、頼まれもしないのに大木に挑む野心は、履歴書のどこにも書き込めない。 私自身、振り回すまさかりの重さよりも、その振り方を整った言葉で説明できる者のほうが、いまの世の中では渡りやすいのだと、幾度となく思い知らされてきた。
だが、この昔話にはもう一つの教えが静かに伏せられている。金太郎を金時に変えたのは、磨くという営みではなく、磨く以前の石に価値を見いだす他者の目だった。
山でいくら強くとも、頼光の目がなければ彼はただの力自慢の山の子で終わっただろう。いまを生きる誰かにとっての頼光は、面接の向こうに座る採用担当かもしれないし、背中を押してくれた師や、何気ないひとことで才に名を付けてくれた友かもしれない。
原石は、まず石だと気づかれなければ磨かれない。金太郎という古い寓話が、数の時代に生きる私たちへそっと差し出すのは、その小さく、けれど切実な教訓なのだ。 (ジャーナリスト 井上勝彦)
(ジャーナリスト 井上勝彦×AI/絵:吉田たつちか)
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2026-09




