UA-77435066-1

「ボケ」と「ズレ」

 | 

2006-05-01第二次世界大戦中、アメリカ合衆国大統領、フランクリン・デラノ・ルーズベルト は、この大戦の最中に亡くなったことから、ノルマンディー上陸作戦や、ヤルタ会談でのソ連へのシベリア参戦要請などを始めとする、一連の決定は、果たして、正常な思考の元で為されたのか?ということが言われているようです。
ノルマンディ上陸作戦は、1944年(昭和19年)6月6日、敗色濃厚の感が強くなってきたドイツにとどめを刺すべく、連合軍によって為された、ヨーロッパ本土への強襲上陸作戦です。ところが、実は、当時、相手方であるドイツ側には、もう一カ所、別の上陸予想ポイントがあったそうです。
それが、パ・ド・カレー地区です。
当時、ヒトラーを始めとするドイツ首脳も、ここを連合軍の上陸予想地区の第一に掲げ、実際に連合軍がノルマンディに上陸したときも、一部の司令官の中には、これをパ・ド・カレー上陸の為の陽動作戦だと思い込み、早期の反撃を指示しなかったとさえ言います。
それほどに、パ・ド・カレーが重要視された。その理由は「イギリス本土から大陸への最短距離である。」、「空軍・海軍からの支援が受け易く、港も確保し易い。」、「イギリスにとって脅威であったドイツ側のロケット兵器基地がある。」ということと、もうひとつ、何より、この地は「ライン川からドイツの心臓部にかけての最短距離。」であったことです。
つまり、ここを攻撃することは、ドイツ心臓部への最短距離でもあることから、ドイツ側の頑強な抵抗が予想されるとしても、結果として、早く戦争を終わらせることが出来た可能性もあったわけです。
となれば、ソ連のベルリン進駐は間に合わなかった可能性も有り・・・。
さらに、その上、連合軍はミスを犯します。
連合軍は、ノルマンディ上陸後も、一路、首都ベルリンを目指すことをせず、まず、残存するドイツ軍部隊を撃破することを優先し、ベルリンから90度曲がって、残存部隊に殺到してしまったことです。
その間に、ソ連軍が「腐っても鯛!」とばかり、ベルリンを制圧してしまったことで、その後の東西冷戦と軌を一にして、ドイツの東西分割が決まってしまったと言われています。
その後、翌1945年2月4日からのヤルタ会談を経てドイツ降伏の1カ月前、日本降伏の4カ月前の4月12日昼ルーズベルトは突然、63歳で脳溢血により任期半ばで世を去ります。
この点について、私見を言わせて頂くなら、ルーズベルトの頭脳は、やはり、正確な判断ができない状態であったと思います。
私自身の体験としても、こういったルーズベルトのような症状は、いきなり、痴呆というものになるのではなく「ボケ」というよりも、「ズレ」という形で出てくるもののようだからです。
日常会話には支障はないから、極々、身近な一部の人以外このズレには気づかないのですが、逆に、家族や秘書など身近にいるものにはよくわかります。
ところが、こういう英雄の微妙なズレは、そういう身近ではない人たちには、なかなかわかってもらえないんです。
ズレた決定が過去の実績と相まって、深謀遠慮とさえ映る・・・。
さらには、困ったことに、ズレに気づいたところで、いくら異議を唱えようとも、逆に意固地になって一喝される・・・老人特有の症状です。
(文:小説家 池田平太郎/絵:吉田たつちか)
2006-05

コメントを残す