明治期、天皇に拝謁することになった元阿波徳島藩主、蜂須賀茂韶侯爵は、天皇を待つ間、明治天皇愛用のタバコを一本くすねたとか・・・。
どうせわからないだろう・・・と思っていたところ、着座した明治天皇は、めざとくそれに気づき、「血は争えぬのう、蜂須賀」と言って、にやりと笑ったとか。
言うまでもなく、蜂須賀家の祖、蜂須賀正勝が、太閤記の中で、「夜盗・蜂須賀小六」として描かれていたことに引っかけたものだったようですが、いかにも、諧謔家であった明治天皇らしいエピソードだと言えるでしょうか。
「夜盗」というものの当時の実態は、まあ、黒澤 明の「七人の侍」に出てくるような泥棒略奪をしていた者もいたでしょうが、現代的な感覚からいえば、むしろ、「フリーランスの下請け集団」のようなものだったでしょうか。いざ、戦争となると手兵を率いてアルバイト参加してみたり、必要とあれば、敵の後方撹乱やゲリラ戦もやるし、場合によっては、自警団もやる・・・と。
もっとも、その蜂須賀小六の血筋は、実は、江戸時代半ばですでに絶えており、この時点での蜂須賀家当主、茂韶の父は徳川将軍家から養子に入った人物・・・、つまり、茂韶自身は、第十一代将軍 徳川家斉の孫に当たるわけで、血筋的には武士にとっては夜盗どころか「頂点」に位置するわけです。
ただ、そうは言っても、蜂須賀家では、かなり、夜盗上がりという評判を気にしていたようで、「何とか先祖の汚名をそそぎたく、夜盗ではなかったと立証してもらいたい」と、郷土出身の歴史民俗学者に依頼したところ、「侯爵家の先祖は確かに夜盗であった。しかし夜盗というものは、その時代には決して恥ずべき職業ではなかった、ということなら、歴史的に証明してみせます」と回答されたとか(笑)。
結局、それでは困る・・・ということで、誰か別の人に頼んだそうですが、これってつまり、身分制度を厳格細分化することで秩序を保っていた江戸時代の、(天皇家を別にした)日本の身分ピラミッドの中では最高位に位置するであろう、徳川将軍家の血筋の人でも、一旦、「夜盗上がり」と揶揄される家系に入ってしまえば「夜盗上がり」になってしまうわけで、なんだか、名門名家という物の根拠の薄っぺらさを見たような気がします。
(小説家 池田平太郎/絵:そねたあゆみ )2014-07