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体育会系薩摩藩士が見た長州の同志的放言

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13-07-5 慶応2年(1866年)、坂本龍馬、中岡慎太郎らの仲介の下、薩長同盟締結を目指す薩摩藩は長州藩に対し、使者として28歳の薩摩藩士・黒田清隆(後の内閣総理大臣)を送り込みます。
到着後、大坂での薩摩の西郷隆盛と長州の桂小五郎(木戸孝允)との対面を提案したところ、慎重居士の桂は逡巡する姿勢を見せたそうで、すると、この時、同席していた長州側の主要人物の一人で桂の6歳年下になる高杉晋作が、桂に対し、「桂一人死んでも長州が滅びるわけではあるまい」と、まるで尻を叩くかのように言い放ったとか。
体育会系である薩摩藩では、下っ端の黒田君が12歳上の西郷先輩や10歳上の大久保利通先輩らに対して、「西郷や大久保が一人死んだくらいで・・・」などいうような発言は絶対にあり得ないことだったそうで、黒田はこれには本当に驚いたそうです。(ちなみに、高杉は黒田の1歳年上。)
これに対し、桂はしばらく熟考した後、「よし、行こう」と、上方行きを決意する・・・と。
この辺の経緯を桂は「主命下るによりやむなく・・・」と記しているそうですが、実際には桂自身の意思と判断によって上方行きを決意したわけで、この辺のやりとりを見ていた黒田清隆は、「余計なことは考えずに黙って行けばいいんだ」という薩摩方式よりも、「自分で考えて納得して行く」長州方式の方を是とすべきなのではないか・・・と考えるようになったと言われています。
つまり、下級生であっても自分で納得して決めるというプロセスを抜かさないということですね。
この点で、私の知人にも典型的体育会系の人がいて、上からのウケは良い反面、下からは「上から言われたことに盲従するのではなく、少しは現場の現実を上に言ってください」などいう反発もあるとか。
彼の論理としては、「自分もその役職の時は上から言われることには黙って従ったのだから、彼らもその役職になった以上は従うのが当たり前」というもののようですが、でも、すべての人が彼のような体育会系上がりではないわけで・・・。
別の体育会系の友人にこの話をすると、「体育会系というのはそういうものじゃない。最後は実力なんだ」と言いますが、でも、実力と言っても、「数字で評価できない部署にいる人達にそれをどう当てはめるの?ペーパーテストでもさせるの?」・・・と。
残念ながら、黒田という人は酒乱で、酔って夫人を殺害したなどと言われるくらいに、あまり、良い印象を持たれていない人ですが、、体育会系で育ってきた人でありながら、違う考え方を認める辺り、やはり、見識はさすがに立派なものを持っていたようですね。
(小説家 池田平太郎/絵:そねたあゆみ)13-07

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