上杉謙信の生涯を動線で表すと、彼は関東に一番多く出兵しており、次が川中島、最後が京都方向という順になります。
即ち、東、南、西(北は海)とまさに、動線が全方位に散っているわけです。
同様のことが謙信ほどでないにしても、武田信玄、毛利元就など大半の戦国武将にも当てはまります。
これに対し、織田信長の動線は西に一本だけ太く伸びています。
即ち、重点がはっきりしているわけです。
家康の動線は逆に東へのみ伸びています。
信長と同盟を結んだ極めて初期の段階で、家康は自らの動線を、強敵がひしめく東へと決定したわけですから驚きです。
信長の場合、西には斎藤道三以外にはそれほどの強敵がいなかったこともあり、何より京というわかりやすい目標もあったわけですが、家康が東を決定した段階では、西には小国なれど斬新な政策を展開しつつある新興の織田、東には崩壊しつつある今川家とその向こうに北条、武田という巨大勢力・・・、というまさに、今川の屍肉を挟んで、西へも東へも進めない袋小路状態だったわけで、ある意味、信長よりも難しい判断を迫られていたと思います。
この時点で18歳の家康は進路を東へ決定したわけですから、一体、どういう脳みそをしていたのか、大変驚きます。
(以後、自領西端で秀吉を迎え撃ったことはありますが、関ヶ原まで西へ向かうことはなかったわけです。)
確かに、今川崩壊後、武田、北条がその旧領へ進出してくる→その為には、少しでも自力を付けておく→取りやすい今川領へ出る→その結果、武田、北条勢力と必然的に国境が接触し圧迫され、気が付いてみれば、同盟者信長(及び後継者秀吉)は比べものにならないくらい巨大になっており、今更、西へ出ることはできなかったということも言えるでしょう。
しかし、家康が信長以前の旧タイプの武将であったら、今川の旧領を併呑しながらも何だかんだ言っても織田領にも隙があったら侵食し、少しでも巨大化しようとしたはずです。
家康にはやはり、信長の「方向」という物のもつがよく理解できていたのではないでしょうか?
方向性とは、下から順に「戦闘→戦術→戦略→目標→目的」と、これらをつなげた物であり、下から積み上げていくことはその都度、必要なことをしていくことであり、それほどの難事ではないのでしょうが、これに一貫性を持たせる為には、上位を先に決定する必要があるわけですが、それは、ある意味、この矢印を逆に決定していくわけですから、降ってくる物を逆に読んでいくようなもので、誰にもそれができるというわけではないようです。
(文:小説家 池田平太郎/絵:吉田たつちか)06-07