私は「西洋史」というものを初めて読んだとき、それまで慣れ親しんでいた日本や中国といった「東洋史」との、そのあまりの異質さに驚いたことがあります。
即ち、それまでの日本や中国の歴史では、敵軍を打ち破って敵将を捉えたなら、そのまま首を刎ねて戦いに決着を付けるのが常識だったのに対し、西洋社会(特に中世)では敵将を捉えたら、何と、身代金を要求し、身代金を受け取ったら敵将を釈放するという、戦争と経済とを密接に結びつけて考える、西洋独特の思考法です。
明治以降、日本が世界の中に乗り出すに当たって、この斬新な考え方を理にかなった物として捉え、日清・日露戦争などに代表されるように、勝ったら賠償金に代表される利益をもらう・・・などという考え方を取り入れたのは、当時の日本人にとっては「新思考法」と言ってもいいような発想の転換だったのではないでしょうか。
ただ、日本人は、これらの発想の転換を、子供のように受け容れたこところまではよかったものの、口では脱亜入欧などと言いながらも、やはり、哀しいかな、首から下はしっかりとアジアのDNAが充ち満ちていたようで、時を経るに連れ、段々と、領土欲という、単なる自己満足への傾斜が著しくなっていったことが、バランスシートで見たならば大赤字でしかなかったと言われる不毛な侵略戦争の実態であったと思われます。
ここで、日本という国の特徴を挙げると、四囲を海で守られていたことで、近隣諸国と接触することなく、言うならばギアナ高地状態で独自の進化を遂げてきたことにあるでしょう。
そのギアナ高地に緊張を与えた外部勢力からの受動的接触を挙げるなら、第一が渡来人(大和朝廷)による縄文人侵略、第二が白村江敗戦、第三が元寇、第四がペリー来航であるかと思われます。
これを見ると、グローバル化が進む以前は、面白いものでほぼ600年周期で起こっており、つまり、外国が日本に興味を示すのは、600年に一回程度のことだったと見ることができるのではないでしょうか。
日本人には、もともとが、そういう経験、免疫が極端に少なかったところへ、ある日突然、ペリーが艦隊を率いてやってきたのですから、周章狼狽、清国のように異人の奴隷にされるのではないかという恐れが生まれ、それが、そうならない為にはどうすればいいかという真摯な姿勢で対処することに繋がり、ひいては結果的に、夷敵の優れているところを学ぼうという虚心坦懐な思考へと変化していったことのように思えます。
ところが、中国や朝鮮半島などは、日本と違い、地勢的に孤立していないことから、古来より、異民族による侵略の洗礼を受けてきており、そのことが欧米列強の進出に対する反応を鈍くしたと思うのです。
それまでの、モンゴル人にしても満州族にしても、皆、中原に侵入しきたものの、その後は、「己の蛮風を恥じ、中華の徳に倣う」ことを良しとしてきたわけですが、ところが、19世紀になってやってきた「西洋」という新たな蛮族は、愚かにもそれをしなかった。
「西洋人」は決して、中華に同化しようとはせず、寄生虫のように、ただただ、利益だけを吸い続けたわけで、おそらく、彼らが「西洋」という、これまでの蛮族とはまるで違う、異質な存在に気付いたのは、日本が脱亜入欧などと言い、いち早く、西洋化を進めたことで、列強化した時点であったのかもしれません。
(文:小説家 池田平太郎)/絵:吉田たつちか)