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テロを力で押さえ込む事への割の合わなさ

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1210-10 先般、イギリスでロンドン同時多発テロ以降、捜査に当たっていた警察官にブラジル人の無実の若者がテロリストと誤認され射殺された事件がありましたがその件で、最近、また、監視カメラがどうのこうの、警察の言い分と違っていたのどうの・・・ということが話題になっているようです。
事件そのものは、当然、私などのあずかり知ることではありませんが、その経緯に関しては、知れば知るほど、考えれば考えるほど、イギリス人とアメリカ人の違いについて感じるところが強くなります。
事件後、スコットランドヤード(ロンドン警視庁)はすぐに誤認射殺であったことを認め謝罪しました。
これを見ていると、絶対に謝らないことで世界的に有名なアメリカ人を思い浮かべてしまいます。
一般に「米英」とひとくくりにして言われることも多い両国ですが、こういった違いはあらゆる所に見て取れるようです。
「靴を履かない民族に靴を履かせなかったイギリス人に対しアメリカ人はむりやり靴を履かせて嫌われる」とは、よく靴を民主主義にたとえて言われることですが、このテロ対策においても違いが見て取れるようです。
アルカイダ以前から、すでにIRA(アイルランド共和軍)のテロの脅威にさらされていたイギリスは、テロを力で押さえ込むことへのコストの高さを知り尽くしているのでしょう、テロを力で押さえ込むのではなく、テロに走ろうとする者たちを走らせないようにする政策、つまり、テロの温床を無くす政策を根気よく実行しています。(この辺のことは、映画「マイケル・コリンズ」をご覧頂ければ、背景的なモノはまあおわかり頂けるかと思います。もっとも、当のアイルランドでさえも、この映画に対しては、とかくの批判があるとは言いますが・・・。私も、随分前にこの映画は見ましたが、ヒロインは何と!今をときめくジュリア・ロバーツだったんですね。今、知りました。
それに対し、アメリカはアフガンからイラクと、ひたすらに力で押さえつける・・・。まさに、北風と太陽の世界でしょうが、こういったことを考えれば、どうしても、世界帝国の先輩としては、イギリスに一日の長があるように思えますが、如何でしょうか?
これは何も、9.11以降に限ったことではなく、アメリカという国は、元々、建国以来、力といういものをひたすら信奉することで成長してきた国(開拓していく上で頼りになるのは自分の力だけという、いわゆる、フロンティア・スピリット(開拓者魂)。つまりは、西部劇のジョン・ウェインの世界。)であり、これがアメリカという国の価値観だとはよく言われることですが、ただ、かつてのイギリスがそうであったように、もう、アメリカもテロを力で押さえ込む事への割の合わなさというものに気付くべきではないでしょうか?
もっとも、アメリカの言う国のアイデンティティがそうである以上、それを放棄するということは、アメリカの凋落を意味することになるのかもしれませんが・・・。
(小説家 池田平太郎/絵:そねたあゆみ)
2012-10

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