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室町時代をみる縦と横  

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(絵:吉田たつちか)

 歴史を学ぶ上で、鎌倉時代や江戸時代など、他の時代に比べてわかりにくいといわれる室町時代・・・ですが、これは縦の線と横の線から見るとわかりやすいんですよ。まず、縦というのは身分制度。それまでの秩序が崩れ、下の者が上の者にとって代わる、いわゆる、下克上が出現します。こう言うと何だか、後先考えない暴れ者の時代が来たような観がありますが、これは本来、戦いを続けている限り、起きてくる「必然」なんです。

 当時はフランス革命以後の市民軍ではありませんから、兵士たちは、何も殿様の理想や理念に共鳴して戦っているわけではなく、皆、自らの出世や報酬などが目的なわけです。ところが、室町時代になって戦争が増えてくると、それに比例して殿様が家来に与える恩賞も増えてくる。勝つためには家来に恩賞を弾むし、負けても奮闘した家来には何かしらの恩賞を与えねばならなくなる。で、気がついたときには家来が自分と変わらないくらいに大きくなっており、「これはいかん」と恩賞を出し渋ると、次から来なくなるし、それどころか敵方についたりする。ならばと、討伐すると、それは自軍の重要戦力を自分で除去することになるのだから、これまでの敵に負けることになる。(それどころか、逆に家臣に負けることも。)こうなると、殿様はもう、家来の要求を呑むしかなく、結果、さらに恩賞を出し、ますます、自らの零細化は進み、やがて家来の方が大きくなる。ただ、その理屈は家来も一緒で、家来も働いたら働いた分、そのまた家来に恩賞を与えねばならなくなる・・・。これが下克上で、それがもっとも顕著だったのが畿内。将軍は番頭にあたる管領に、管領も守護代に、守護代も奉行に従うという構図が出来てしまったと。

 次が横の線で、京都には、室町将軍と管領がいるのですが、関東にも関東公方(将軍)と関東管領があり、なぜ、こんなことになったかというと、結局、日本が広すぎたんですね。そういうと、今の人は失笑されるかもしれませんが、電信設備も高速交通も無かった時代、東まではとても目が届かないんですよ。なので、東は切り離して、別の人に任せようと。つまり、関西資本の会社が、別途、東京本社を立ち上げて二本社制にしたようなもので、ただ、最初は、睨みも利いているし、まずまず上々の滑り出しを見せるものの、時代を経てくると、血縁も遠くなり、勝手なことをやり始める。結果、京都側の思惑もあって、関東公方も関東管領もそれぞれに分裂、抗争するようになったわけです。下克上で弱体化する京都の幕府と勝手に抗争して下克上を招いた関東と言えば、わかりやすいでしょうか。

(小説家 池田平太郎)2020-01

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