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超一流のアスリートが到達する境地

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(絵:吉田たつちか)

かつて、プロ野球選手には、実にユニークな異名がついていました。「打撃の神様」「安打製造器」「針の穴を通すコントロール」「神様仏様稲尾様」から「ミスタープロ野球」に「世界の王」etc。それが、最近では、落合博満やイチローのような極めて個性的な選手でも、特に形容詞がない。(「オレ流」や「振り子打法」なんて往年のスポーツ記者が聞けば失笑ものでしょう。)さらに言えば、イチローの引退会見でも「お気持ちをお聞かせください」「今のお気持ちを」ばかりで、思わず、「聞くことないなら聞くなよ」と突っ込みたくなりました。
 私なら、「かつて、打撃の神様と呼ばれた川上哲治選手は、『ボールが止まって見える』と言いました。曰く、『止まって見えるような気がするんじゃない。止まって見えるんだ。鍛錬に鍛練を重ねた選手がある一定の高みに到達した瞬間だけ、そういう状態になる。同じ事を王(貞治)はボールの縫い目が見えると言い、広岡(達朗)はゴロの心がわかると言った』と言っておられましたが、イチロー選手にもそういう状態になったときがあったのでしょうか?」と聞くね。スポーツ記者なら、そのくらいのことは聞かなきゃ・・・と。
 で、その川上の「ボールが止まって見えた」は、現役時代、一心に打撃練習をしていたところ、球が止まって見えるようになったので、そのまま、打ち込んでいたら、打撃投手の「もう300球投げています。勘弁してください」という声で、初めて、我に返ったという話です。こういう話は川上に限らず、超一流のプロボクサーは、シャドーボクシングしているときに相手の姿が見えると言いますし、碁の名人は寝ても覚めても碁のことばかり考えているから、ついには対局中、相手が打ってきた手が、夢の中で見た手なのか、現実なのかわからないままに指して勝利したという話もあります。
 また、川上とは少し違いますが、川上が「打撃の神様という称号は彼にこそ相応しい」と言った榎本喜八選手、それからシーズン四十二勝の年間記録を作ったときの稲尾和久投手、そして、強敵中国に勝ったときのバレーボール中田久美選手などは、「真上から自分を見下ろしている、もう一人の自分がいた」と言っています。ただ、これらの体験も、ずっと持続できたかというと、そうでもなく、だいたい、みんな一ヶ月程度で、中田選手に至っては、その中国戦の一試合だけで、以後どうしても再現することができなかったとか。つまり、一定の才能に恵まれた人が、一心不乱に鍛練を重ねるうち、ほんの一瞬だけ到達する瞬間、それが、人が長く留まることを許されない「神の領域」なのでしょう。

(小説家 池田平太郎)2021-12

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