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戦前のスーパーエリート一高東大

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(絵:吉田たつちか)

 渋沢栄一は孫の敬三が生物学者を志しているのを知りながら、跡を継ぐことを懇願、意に添わぬ実業界へと進むことになるのですが、それは他の子供たちも同様だったようで、文筆の道に進みたいという四男秀雄(栄一52才のときの子供)に対しても、同様に懇願。結果、秀雄は関連会社で田園調布の建設に携わることになるのですが、敬三が生涯、学問への憧れを持ち続けたのと同様に、戦後、公職追放になった後は文筆家に転身。随筆の執筆やテレビやラジオのコメンテーターとしても活躍したと。(敬三も、生物学者であった昭和天皇に謁見した際には、生物学の話で盛り上がり、退室後、「はて、渋沢の所管は何であったか?」と聞かれたとか。)
 では、懇願しなければならないほど、栄一の子孫に人がいなかったかというとそうでもなく、栄一の実業家としての血をもっとも受け継いでいたのが三男の正雄です。栄一の子や孫のうち、この正雄だけが、自ら進んで実業界へ入り、富士製鋼、石川島造船所、秩父鉄道、日本鋼管などの渋沢系の会社を引き継ぐ一方、昭和5年 (1930)には、自ら「石川島飛行機製作所」を創立、初代社長に就任しています。(栄一の子や孫の中で、唯一、自ら会社を興した人だとか。)この人は、製鉄業に多大な貢献をした人で、もっと知られても良い人だと思いますが、とにかく寝なくていい人だったそうですね。夜中に「今から行く」と言って電話してくると、「来るな」と言われても来るそうで、それでいて、明け方になると、ポケットから手帳を出して細かい数字をチェックしていたと。
 ちなみに、正雄は、子供の頃、毎日、学校から学友(子分?)を従えて帰宅。「じゃ、失敬」で、学友?らは初めて家に帰れたそうですが、一方、次男も誰に似たのか、気性が荒い。あるとき、栄一夫人の知人が道を歩いていると、小学生対中学生の刃物を持っての集団乱闘に出くわしたそうで、その中に、ジャックナイフを棒の先につけ、敵に肉薄しようとする少年がいて、よく見たら、それが次男・武之助だったと。
 で、これら、後妻の産んだ次男、三男、四男は全員、秀才中の秀才の証である一高から東大。(当時、東大生の中でも、一高出身者は肩で風を切って歩く状態で、授業でも「そこは一高出身者の席だ。君は遠慮してくれたまえ」などということもあったとか。)対して、先妻の血を引く嫡孫・敬三は、一高ではなく二高。なぜ一高ではなかったか?というと、成績ではなく、「栄一の後嗣たる者が万一、一高に落ちたとなると名前に傷がつく」という温かい?配慮だったとか。ちなみに、敬三の父・篤二は五高。これも、同じ配慮だったのかも。  

(小説家 池田平太郎)2022-02

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