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三国志に見る名宰相・諸葛亮孔明北伐の真相

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(絵:吉田たつちか)

 一般に「三國志」は、「三国」と言いながら、その実、漢王朝に取って代わらんとする逆臣・曹操の「魏」と、漢王朝再興を旗印にする劉備と、その遺臣・諸葛亮の「蜀(漢)」の対立を軸に展開します。ただ、劉備は漢の皇帝と同じ「劉」姓だから、王室の一門に連なると自称していたようですが、彼が先祖と称した前漢の景帝の第9子、中山靖王劉勝という人は、子と孫を合わせると120人以上もいたという人で、これを先祖に持って来ている時点で、自ら「こじつけですよ」と言っているようなもの。
そもそも、漢王朝の創始者・劉邦は、中国の長い歴史の中でも珍しい、庶民から成りあがった人でしたから、したがって、「劉」姓自体、ありふれた姓でした。(その劉邦の漢王朝滅亡後、動乱を勝ち抜き、新たに皇帝となった劉秀という人が、たまたま、同じ「劉」姓だったことから、自分は、「漢王朝を再興した」正統な君主と称した結果、劉邦創始の漢を「前漢」、劉秀創始の漢を「後漢」と呼びわけることになったと。)もっとも、と言って、劉秀や劉備が本当に漢王朝の縁に連なる人だった可能性までは否定しませんが。
さて、劉備死後、後事を託された宰相・諸葛亮のもっとも賢明なところは、蜀王朝のまだ礎も固まらないうちに、先帝の遺志を継ぎ、大国魏に戦いを挑んだことでしょう。一見すると軽率のように思えますが、皆、王朝樹立に向けて懸命に戦っているうちはともかく、落ち着いてくると、「そもそも、何であいつなんだ」、「あんな新参者より、俺の方が古いぞ」となるもの。
「クーデターを未然に防ぐために最も効果的な方法は、戦争だ」と言ったのはフランスの皇帝・ナポレオン三世ですが、諸葛亮もそうなる前に、「正義は我にあり」で魏へ攻め込む。しかも、当時、魏は圧倒的な超大国。力の差は歴然でしたが、しかし、正義を旗印に超大国に立ち向かうからこそ、国内は結束するもの。(いつの時代も、「正義」というものは、「勝てる勝てない」を超越する美酒のようで。)
ただ、魏が自ら皇帝を名乗ると、蜀は自家撞着、難しい判断を迫られます。魏の皇帝を認めれば下風に置かれる。と言って、蜀も皇帝を名乗れば、分家が本家に取って代わったことになり、魏と同類になってしまう。諸葛亮は悩んだ末に、結局、蜀も皇帝を立てることにしますが、今度はさらに困った事態となったのが、第三国の「呉」までもが皇帝を名乗ったこと。しかし、魏が超大国である以上、蜀は呉と共闘しなければならず、これまた逡巡した末に、蜀は呉の皇帝就任を受け入れます。この辺り、諸葛亮は口では大義を唱えながら、絶えず、現実的な判断を迫られていたということでしょうか。

(小説家 池田平太郎)2023-12

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