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りんごの唄にみる詩人の凄み

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12-07-4 「戦後」と言えば、「りんごの唄」ということは私のような「戦争を知らない子供たち」どころか、「戦争を知っている子供たちの子供たち」のような世代でも耳にしていますから、やはり当時を生きた人々にとっては、紛れもない「歴史」だったのでしょう・・・。
作詞を担当した詩人、サトウハチロー氏について。
私にとって、この人は、早くから、子供の頃によく耳にした童謡「ちいさい秋みつけた」の作者として、認識しておりましたが、近年、そんな哀感溢れる詩を作る割には、派手な・・・を通り越して、破天荒な私生活で有名な人であったとも聞きました。(まあ、親父の佐藤紅緑も、口論の挙げ句、料亭に火を付けたりなんてエピソードがあったくらいですからねぇ。)
その氏が作詞した、この「りんごの唄」ですが、元々は、軍歌として作られた物だったとか。軍部の「音楽は軍需品である。」・・・という意向の元、軍歌として作ったものの軍の検閲によって「軟弱である!」として却下され、以来、ずっと氏の手許で暖められていたもので、それが、戦後、「敗戦にうちひしがれた国民を励ましたい」という意向の元で、映画「そよかぜ」の上映に向け、その主題歌の作詞を依頼された氏が、「国民を元気づけるのは詩人の義務だ」と言って傍らから出してきたのが、この詩だということでした。
この「りんごの唄」って、確かに、曲調は確かに明るい、はずんだ歌でしょうが、歌詞だけをみたときには、割と普通の情景です。この詩のどこに「明るく励ます、元気づける・・・」なんて部分があるというのか・・・。
「赤いリンゴに 口びるよせて だまってみている 青い空 リンゴはなんにも 云わないけれど リンゴの気持ちは よくわかる リンゴ可愛や 可愛やリンゴ」・・・って、特別なことはどこにもないし、一言も、「頑張れ!」とか「負けるな!」、「立ち上がれ!」なんてのは出てきませんよね。
でも、現実に、この歌は、肝心の映画が霞んでしまうほどに、当時の人々の心を魅了し、多くの人に歌われ、活力を与え、そして、愛されたわけですから、本当に、日本中、津々浦々で口ずさまれた歌だったのでしょうが、そこまで人々の心を捉えたほどの歌でありながら歌詞は何の変哲もない淡々とした情景・・・。
ただ、その一方で、この「りんごの唄」の歌詞を、こと、軍歌として見た場合には、何となく、意図していたところがわからないでもないような気がしますね。リリーマルレーンの日本版と言ったところでしょうか・・・。
この歌を歌った歌手・並木路子さんが、レコーディングの時に戦時中の辛い体験を思い出して、どうしてもうまく歌えず、作曲家の万城目 正氏から、「上野へ行ってきなさい」と言われ出かけていくと、大人ばかりか、年端もいかない孤児たちまでもが働いており、彼女がそのうちのひとり、靴磨きの少年に「僕、いくつ?」と尋ねたところ、「母ちゃん、いなくなっちゃったからわかんない」と答えた・・・と。
文字通り、年端もいかない子供までをも、こんなところに追い込んだ連中には、毎度の事ながら、本当に憤りを感じますが、この詩の意図したところの意味は当時を生きてない私なんぞには、所詮、わからないのかもしれません・・・・。
その意味では、彼の師である、西条八十が、失意の中にあったときに、満を持して書いた、日本初の童謡「かなりあ」の歌詞は凄いですよね。
出だしが、「歌を忘れたカナリアは 後ろの山に棄てましょか」ですからね。今だったら、動物愛護団体や教育委員会が目を血走らせて阻止に廻るんじゃないですか?でも、これはまだ良い方で、二番は、「背戸の小薮に埋けましょか」で三番は「柳の鞭でぶちましょか」ですよ。棄てるのはまだしも、生き埋めや、ムチ打ちの刑は、まずいんじゃないですかぁ・・・。
もちろん、詩人の言わんとするところは、そのあとに、すべて「いえいえ それはかわいそう」とか、「いえいえ それはなりませぬ」などと否定することで、子供の持つ残酷性というカミソリを柔らかく制し最後に、「歌を忘れたカナリアは 象牙の舟に銀のかい 月夜の海に浮かべれば 忘れた歌を思い出す」
という美麗の句に繋げるわけですから、西条八十という手練れの並々ならぬ技量と、同時に、乾坤一擲の想いが見て取れるような気がします。
もっとも、これって、八十自身、詩人としては、不遇期にあったがゆえに、渾身の力を込め得たのかもしれませんけどね。
(小説家 池田平太郎/絵:吉田たつちか)12-07

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