先日、九州国立博物館に行った折に、久しぶりにちょっとだけ、太宰府天満宮に行ってきました。
大宰府といえば、学問の神様で有名ですよね。(ここの宮司の子どもは絶対に名門進学校に通る・・・という伝説があります。まあ、ここの子が落ちるということは神社にとっては死活問題なんでしょうね。実際、通ってるらしいですけど、それはそれで子供には余計なプレッシャー以外のなにものでもないわけで・・・。)
ここ、当然、発祥は菅原道真に始まるのでしょうが、菅公のお墓はどこにあるか御存知ですか?
はい、ご賢察の通り、天満宮本殿の真下にあるんです。つまり、太宰府天満宮は日本でも珍しい、人の「遺体」がある神社なんですね。
(通常、神社は遺体どころか、葬儀でさえも不浄として嫌いますからねえ。でも、私はこれで良いと思うんですよ。神仏混淆こそが、日本の歴史の中で紡ぎだされてきた、あるべき姿なのだと思ってますから・・・。)
ちなみに、「太宰府」と「大宰府」の違いはおわかりでしょうか。
天満宮が太宰府で、政庁跡が大宰府。地域に馴染みがない方には少しわかりにくいかもしれませんが、元々、朝廷の出先機関である「大宰府政庁」があり、形の上では菅公は一応、ここに左遷されてきたわけです。そして、亡くなった後に・・・、まあ、少し曲折はあったようですが、政庁から少し離れた所にあったお墓の上に神社が造られ、「太宰府天満宮」となった・・・と。
菅公こと、菅原道真は一般に大宰府に「左遷」されたといわれてますが、実際には「左遷」なんて生易しいものではなく、「流罪」そのものだったそうです。つまり、大宰府政庁に出仕していたわけではなく、軟禁状態に置かれ、かなり過酷な環境で事実上の死刑判決に等しい措置だった・・・と。
で、道真配流から千年の後、再び貴人がここに不遇をかこつことになります。三条実美ら五卿です。(長州への「七卿落ち」として有名ですが、長州征伐後、福岡藩お預かりとなって太宰府天満宮に収容された時には5人になってたわけですね。)
ところが、3年間の太宰府軟禁時代、福岡藩黒田家は徳川幕府から、「扱いが寛容すぎる!」とのお叱りを受けたことから、その処遇を酷薄なものとしたところ、直後に明治維新となってしまった・・・と。
で、すべてが裏目に出てしまい、これが福岡藩を「廃藩置県前の新政府による唯一のお取り潰し藩」という形での終焉へと導くことになるわけですね。
その一方で、太宰府天満宮だけは籍奉還の際、日本全国の社寺も昔からの社領、寺領を返還する中、その後も付属領600石、約20ヘクタールの「領土」をそのまま持ち続けることが出来た・・・と。
これは、三条卿が福岡藩から迫害された時に、天満宮の宮司が色々と懇意にしてくれたことの恩義に報いんと特例を認めたからだとか。
もっとも、その領土も戦後の農地改革で失い、残っているのは境内の一部という名目で接収をまぬかれた約5アールの水田だけだそうです。
ちなみに、太宰府には、もう一人、如水こと黒田官兵衛孝高も住んでました(↑)。
言うまでもなく、福岡藩黒田家始祖にして、来年の大河ドラマの主人公ですね。
関ヶ原合戦後、息子長政が太宰府がある筑前の国主となったことから、隠居所としてここに庵を建てたとか。
この辺は、今も東京の文化人が古都・鎌倉に住みたがるのと同じ感覚だったでしょうか(笑)。
(小説家 池田平太郎/絵:そねたあゆみ)2013-12