(絵:吉田たつちか)
私は常々、「日本の中世は平清盛から始まる」と思っていますが源平合戦の平安末期というのは中世と古代との境目で、結構、わからないことだらけなんですね。この点、「壇ノ浦の戦い」とは、関ケ原、鳥羽伏見と並び、日本三大会戦の一つに数えられる日本史に残る一大戦闘ですが、これまでの通説は、大正時代に唱えられ始めた「東向き潮流に乗った平氏軍が会戦当初は勢いに乗って攻め立てたが、苦境に立った源義経が本来は反則であるはずの漕ぎ手の射殺を命じたことで、攻撃が停滞。その間に潮流が変わり、源氏が逆襲に転じ勝利した」というものでした。が、先般のNHKの合戦における最新研究の結果を特集した番組では、「壇ノ浦付近では一方向だけではない複雑な潮流が渦巻いており、平氏船団が漕ぎ手を射られて漂う間に、九州側に流れ着いてしまい、義経の兄、源範頼が率いる源氏陸上部隊の矢の射程距離に入ってしまった」というものでなるほど、おそらく、それで間違いないのでしょう。(ちなみに、渡海最短距離の関門海峡は流れが速くて複雑。後年の大内、毛利の大軍も、関門海峡を渡ることはせず、迂回して、15kmほど西の福岡県遠賀郡芦屋町へ渡海しています。)
ただ、では、どの程度、源氏側に潮流も含め、総合的に考えた上での、陸海協調作戦があったのかとなると、いささか心もとない話で、まず、兄弟とはいえ、義経と範頼の関係はしっくりいっていません。範頼とすれば、いつも本隊の主将として敵主力を引き受け、苦労しながらも、終わってみれば、美味しい所は全部、義経に持って行かれており、面白くないという感情はあったようです。壇ノ浦合戦直前に義経派遣の報を受けた際には、兄の頼朝に「いらない」と強く抗議しています。また、仮に信頼関係があったとしても、電信設備が無い時代、互いに協調作戦をとることは、それほど簡単でもなかったはずで、もし、ある程度、出来ていたのなら、それを実施、いや、考慮したこと自体が源氏の最大の勝因だったでしょう。がおそらく、協調意図などはなく、バラバラに戦っているうちに、たまたま、源氏側に良い形となったのだと思います。戦争に限らず、人のやることは案外、そんなもんです。
一方、平氏側は範頼に九州から叩き出され、彦島に逼塞を余儀なくされた時点でもはや、孤立無援、清盛以来の兵も多くが逃げ去り、滅亡は時間の問題。そこへ、源氏の大軍襲来と聞き、もはやこれまでと、本来、非戦闘員であるはずの安徳天皇を始め、平清盛夫人時子など一族の女性も壇ノ浦の戦場へきており、これが三種の神器ともどもの入水に繋がったわけですね。これは義経も想定外だったでしょう。
(小説家 池田平太郎)2022-07