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家庭料理という食事文化

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(絵:吉田たつちか)

 食文化というと、どうしても一流料理人が作ったものや、外食文化について語られがちですが、もうひとつあまり注目されない食文化があります。それが家庭で普段食べている家庭料理。
 料理屋ができるようになるのは、ヨーロッパではフランス革命のあとから。日本では江戸中期くらいからです。それまでプロの料理を食べることができたのは、料理人を抱えている貴族や藩主など支配者階級か、上級の宿屋くらいだったのです。料理屋ができることで、それまで食べられなかった洗練された食事文化が、一般階層にまで降りてきました。しかし家庭料理と外食料理は長い間、別物とされてきました。
 家庭料理は底辺の食事文化で、プロの料理人の作るものは頂点の食事文化とされてきたのです。これが融合するようになるには、20世紀まで待たねばなりません。
 では昔の家庭料理とはどのようなものであったのでしょうか? よく「江戸時代や戦前のご飯」とかで再現写真とかイラストが出てきますが、たいていは都会の上流階級の料理で一般庶民のものとは少し違っていました。贅沢すぎるのです。
 そもそも昔は都市部以外では、大金持ちしか白米を食べることができませんでした。じゃあ何を食べていたのかというとかてめしです。家庭飯ではなく糧飯と書きます。これはコメが2~4割にムギ、ヒエ、アワ、イモ、ダイコンなどを混ぜて炊いたものです。稲作地域では、コメの割合が多くなりますが、やはりムギや雑穀を混ぜていました。
 大正から昭和初期の食生活を調べた「日本の食生活全集」(農村漁村文化協会刊)によると「(東京の)久留米の農家の例は、麦を7割あるいはさらに稗を1割入れた米3割か2割の飯」とあります。
 農学博士である野本京子氏の「農村の「食」の変容からみた近代史―農村調査資料に聴く」にはこんな聞き書きが載っています。

【1936 年生れの山下惣一(佐賀県、農業・作家)
は以下のように述べている。
コメの飯は盆、正月と祭りのときだけ。わが家では昭和 38 年までコメの飯はハレ日の食事に限られていました。「白いごはんを腹いっぱい食べたい」というのは私たちの世代の農村の子どもにとって夢だったのです。】

昭和38年というと1963年、つい最近のことです。農村でも商家でも客でも来ない限りおかずは基本なかったようで、あってもせいぜい漬物程度、たまに豆腐や魚が出れば贅沢というものでした。
 家庭料理とプロの料理が融合してくるのは、日本で言うと高度成長期の60年代くらいからです。テレビが普及し、料理番組が盛んに放送されるようになり、外食が少しずつ増えてきました。コロッケなどを肉屋で作るようになったのは昭和初期ですが、それも贅沢品でした。
 高度成長期になると、電気やガス、水道をそなえた台所が一般化し、炊飯器やトースターも普及しました。カレールーが発売されたり、トンカツ、ハンバーグ、ホットケーキなどお店でないと食べられないものが、家庭でも作れるようになってきたのです。
 そういうと「電気、ガス、水道はもっと以前から普及していたでしょう」と言う人がいると思いますが、ぼくは60年代に神戸市で生まれました。割りと都会に近かったと思いますが、遠い記憶で子どもの頃にお風呂を薪で沸かしていたことを覚えています。この時代に、土間がありカマドがあった台所から、ダイニングキッチンに変化し、家庭料理も大きな変化が起こった時代だったのです。
 さて、日本にせよ、世界にせよ、表の食事文化はプロの料理人が作ったものですが、実際圧倒的多数の生命を支えていたのが家庭の料理です。こっちはあまり表舞台には出て来ません。家庭料理も大切な食事文化のひとつなのです。
(文:巨椋修(おぐらおさむ) 食文化研究家)2022-11

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