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大阪の食い道楽と食文化

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(絵:吉田たつちか)

 「大阪食い倒れ」「京都着倒れ」「江戸履き倒れ」と申しまして、昔から上方、大阪の人には食道楽の人が多かったらしいですね。ちなみに「●●倒れ」というのは、本業をなおざりにして「●●道楽」に熱中しすぎ、身を持ち崩すことが本来の意味。
 大阪の食文化といえば、お好み焼き、たこ焼き、きつねうどんなど粉もののイメージが強いですが、上方は江戸時代以前から日本の中心。江戸時代以降も経済の中心でした。すると当然多くのお金持ち、大富豪が集まります。その人たちの舌と胃袋を満足させるために、上品にして高級な料理が発達していきます。
 政治の中心の江戸は武士の町。ヨーロッパ貴族と違い、武士は質素倹約が基本。武士文化はそれほど日本の食文化に貢献していないのです。江戸の町人文化では、さっと食事を済ませることができる立ち食いソバ、屋台の握りずしや天ぷらなど、ファストフードが発達していきます。
 大阪は、四国、九州と海で繋がり、北前船で蝦夷から日本海側をまわり、敦賀から京・大阪に、さらに下関を抜けて瀬戸内海に入って大坂に至るルートで、日本各地から様々な食材が集まってきました。そのため大阪は「天下の台所」と称されるようになるのです。
 日本中から集められた上等の食材で、高級な懐石料理(茶道から発達した本来は質素な料理)や会席料理(宴会料理)が、発達します。
 例えば「生けす」で泳ぐ魚を、客の目の前で料理する手法は、江戸時代に大阪で生まれたと言われています。
ただし高級料理とはいえ、大阪の富豪は「あきんど」です。普段は旦那衆も質素倹約につとめ、高級料理店でも、タイやハモなどは刺身にする表の身だけでなく、あら煮などにして裏の身まで食べました。
他にも大阪では、かば焼きにしたウナギの頭を半助といい、その頭を捨てることなく豆腐と一緒に煮た「半助鍋」がいまでも伝わっています。
明治になると、大阪からいろいろな食文化が誕生します。
赤玉ポートワインは1907(明治 40)年サントリーの前身、壽屋(ことぶきや)洋酒店が日本人の舌に合う国産初のワインを製造しました。
日本製ウスターソースを初めて開発したり、お寿司のバッテラを作ったりしたのも明治時代の大阪。
大正時代には初めての即席カレー「ホームカレー(現在のハウスカレー)」や、「グリコキャラメル」などなどが大阪から誕生しています。
 1932年(昭和7年)には、現在の食堂に欠かせないロウでできた「食品サンプル」を作ったりもしています。そしておなじみ「ボンカレー」や「チキンラーメン」も大阪発。
 さて、最後に紹介するのは、江戸の名物「佃煮」
 この佃煮は、元々大阪の食べ物でした。それが江戸に来たのには、あの本能寺の変が原因。そのとき徳川家康は大阪の堺にいたのですが、織田信長が本能寺で討たれたことを知った家康は、自分も狙われるのではと、慌てて自分の領地である三河に帰ろうとしますが、大阪の神崎川に阻まれ渡ることができない。
 それを助けたのが、大阪佃村の漁民たち。漁船で家康一行を助け、さらに村の保存食である煮物をプレゼント。家康は大いに感謝し、天下を取った後、佃村の漁民を江戸に連れてきて、特別な漁業権を与えたといいます。その漁民たちが住んだのがいまの東京・佃島。家康にプレゼントした保存食が佃煮と呼ばれるようになります。おもしろいですね。

(食文化研究家:巨椋修(おぐらおさむ))2021-12

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