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厳父と言うべき、武家の教育

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0911_1 10月27日は吉田松陰の命日でした。寅次郞少年(松陰)は、幼時、叔父であり、師でもあった玉木文之進について兵学・政治学など、様々な学問を学んだと言われていますが、それ以上に教えられたのが、武士というもののあり方・・・というものだった。
文之進にとっての「武士」とは、即ち、「私心を持たない」と言うことだったようで、あるとき、講義中に寅次郞の額に虫がとまり、痒かったので、つい手でポリポリと掻いてしまった。それを見た文之進は、突如、烈火の如く怒り、寅次郞に殴る蹴るの凄まじい暴行を加えたと言います。この光景を見た寅次郞の母、タキは、後年、「息子は死んだと思った」そうです。

文之進に言わせると、「痒みは私。講義は公(おおやけ)に役立つ為にやるのであるから公。とすれば、掻くことは私の満足である。それをゆるせば長じて人の世に出たとき、私利私欲をはかる人間になる。だから殴るのだ。」ということだったそうですが、現代人から見ると、少々、理不尽なようにも思えますが、やはり、松陰という人格を形成する上では必要なことだったのかもしれません。暖かく前向きな母だけで、後の吉田松陰が出来たわけでもないということでしょうか・・・。

一方で、こういった話は、武士の世界ではそれほど突飛なことでもなかったようです。豊臣秀吉の初期の軍師、竹中半兵衛重門についても同じような話が伝わっています。竹中半兵衛と言えば、当代きっての知恵者として知られていた人物ですが、我々のイメージでは、動の黒田官兵衛、静の竹中半兵衛といった印象の白面の物静かな文学青年といったところではないでしょうか?

この半兵衛が子供たちへの軍学の講義中、子供の一人が黙って席を立ったそうです。戻ってきて、「どこへ行っていた?」と聞かれたので、「厠(トイレ)へ行ってました。」と答えた途端、普段、物静かな父が烈火の如く怒りだし、まさに玉木文ノ進状態で激しく折檻されたと言います。

曰く、「竹中の家の子供が軍学の講義の途中で、尿意を催したのなら、何故、垂れ流さん!『竹中の家の子は、軍学の講義に夢中になった余り、尿意すら忘れて垂れ流した。』と言われてこそ、竹中の家の誉である!」と。

これも、理不尽と言えば理不尽のようにも感じますが、これは私には何となくわかる気がします。要 は   「覚悟」の問題を言いたかったのでしょう。「竹中の家は軍学者の家である。その家の子供は、小便をすることすら気づかぬほど軍学に打ち込んでいる。」と。

私がまだ子供の頃、材木の上に土足で乗ったところ父からほぼ同じような折檻をされたことがあります。大工の家の子供が、材木に土足で乗ったらいけないというのは、一々、教えられるまでもなく、当然、見知っておいてしかるべし・・・というものだったのでしょうか。

しかし、文ノ進も半兵衛も、教育者とは言え、とんでもない教育者ですよね・・・。

身近にいないでよかった・・・、居たか(笑)。

(小説家 池田平太郎/絵:吉田たつちか)

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