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幕末版オタク登用事例、大村益次郎  

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09-09-03大村益次郎という人物をご存じでしょうか。
東京の靖国神社に銅像として置かれている人物・・・と言えば思い当たる方もいらっしゃるかもしれませんが、事実上の日本陸軍の創始者とされている人です。
ところが、この人は元々、長州藩出身とはいえ、松下村塾で知られる志士の出身ではなく、本来、幕末の激動とは何ら関係なく、家業の村医者を継ぐために、医学を学んだ学者さんだった。
ただ、勉強の方は半端じゃないほどに出来た人のようで、防府の梅田幽斎、豊後国日田の広瀬淡窓、緒方洪庵の大坂適塾といった私塾に学び、長崎に遊学後は、適塾の塾頭を務めたほどの秀才だった。まあ、今日で言うならば、国立大学の大学院を出た後に欧米系の大学に留学、帰国後は母校で助教授を務めていたようなケースを想像すればわかりやすいでしょうか。
その後、一旦、父親に言われるままに帰郷し、近隣の娘と結婚したものの、村医者としてはあまりにも優秀すぎたのか、患者に対しては診察よりも講義をしてしまう傾向があったようで、医者としてはあまり芳しい評判がなかったのに対し、一方では、その学識を惜しむ声は多く、やがて、伊予宇和島藩から求められて出仕、西洋兵学の翻訳と講義を受け持ち、その後、安政3年(1856年)には宇和島藩御雇の身分のまま、幕府の蕃書調所教授方手伝として幕臣となり、さらに万延元年(1860年)、噂を聞きつけた故郷長州藩からの要請を受け、長州藩士となり、やがて、文久3年(1863年)に長州へ帰国。帰国後は、西洋学兵学教授となったものの、その翌年、長州藩は軍部の暴走により、蛤御門の変にて大敗し、その結果、幕府の第一次長州征伐を経て高杉晋作の決起による内乱状態となってしまうわけですが、やがて、討幕派が政権を掌握すると、高杉や桂小五郎ら藩中枢は西洋式兵制の採用を推し進め、書物を通して、この点に一番詳しい大村にその指導を要請・・・。
ここで、面白いのは、長州藩は、これまでの相次ぐ戦乱で、多くの人材を失っていたこともあり、大村は講義だけでなく、実際の作戦指導まで任されることになったことです。
なぜなら、大村その人は本の中でしか戦争を知らない単なる学者であり、その人に作戦指導を任せてしまったということは、今日で言うならば、軍事に詳しい大学教授を、そのまま、自衛隊の司令官に任じてしまったようなものでしょうが、インパクトの上ではむしろ戦争マニア、あるいは兵器オタクを防衛大臣兼参謀総長に任命した・・・と言った方が当を得ていたでしょうか。
この点、メジャーリーグ、ボストン・レッドソックスのチーム編成を担当しているのは、野球経験などまったくない、ネット上で独自の数式で選手を評価していただけの、いわば、ネット版野球オタクのような人だと耳にしました。
つまり、レッドソックスのオーナーとしては、「能力さえ確かならば、出自や経歴などにはこだわらない」・・・ということなのでしょうが、日本のプロ野球がそういう人を抜擢するなどとは到底考えられないことを思えば、如何に追いつめられていたとはいえ、長州人というもののこの辺の発想の柔軟さには凄味すら感じます。
(文:小説家 池田平太郎/絵:吉田たつちか)
2009-09

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