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遊びをせむと生まれける

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2008.02-2私が二十代の頃、阪急の創始者にして、天才的なアイデアマン社長と言われた小林一三翁の伝記を読んだことがあります。
翁の独創的な事業の多くは、当時としては驚くほど斬新なものであり、駅のターミナルデパート、鉄道沿線での住宅分譲など、今となっては当たり前の事業になっている話もこの人が始めるまでは誰も思いもつかなかったわけですから、その力量のほどがわかります。
伝記の中で、小林翁の卓見がどうしても、理解できない箇所がありました。
それは、世界恐慌の頃、世の中が絶望的なまでの不況のどん底にあるときに、娯楽産業に進出したことでした。
曰く、「人々は、不況になればなるほど、娯楽を求めるようになる」ということだったのですが、私の考え的には、「不況になればなるほど、娯楽など、生活に関係のない部分は真っ先に切りつめられる」・・・というものでした。
飯は「金がないから食うのをやめよう」というわけにはいきませんから、人々は、金がなくなれば娯楽を削ってでも衣食住などの最低限の出費に当てようとするはずだ・・・と。
しかし、史実は、やはり、当然ながら、小林翁の方を支持したようで、ふたを開けてみれば、このとき、宝塚や東映など、翁が手がけた娯楽産業は大不況にもかかわらず大盛況だった。
このことは、長く私の中に引っかかっていたのですが、最近、そのことを思い出させる一文に出会いました。
先般読み終えた、渡邊行男著「緒方竹虎 リベラルを貫く」という本の中で、太平洋戦争直後について記した部分です。
曰く、『九月二日朝、重光・梅津の両全権はミズーリ号に至り、歴史的な降伏文書に署名した。重光 葵は命を賭す思いの短歌を残している。
「ながらへて 甲斐ある命 今日はしも しこの御楯と 我ならましを」。
だが、当時の庶民の感覚とは違うようでした。
徳川夢声の日記によると、「降伏調印式の、東京上空を無数の米軍機が飛んだ。威圧のためだろうが壮観だったので、子供らを呼んで二階で眺めた。新宿はどの劇場も満員、殊に『太閤記』を上映している帝都座の入りは大変らしい。角を曲って一丁ぐらい列が続いている。私の出演している松竹館も、三階まで人が詰まった。…観客は殆んど全部、若い男である。
落語を聴き、私の漫談を聴いて、朗らかに笑っている」庶民は終戦直後から平和を楽しんでいる姿を伝えている。 』と。
生活が厳しいからこそ、人々は娯楽を求める・・・。
この一見すると、矛盾するような世相が起こるということは、即ち、「遊びをせむと生まれける」ではないですが、つまりは、人は何のために生きているのか・・・という、人だけが持つ生きることに対する目的意識の是非にまで踏み込むことなのかもしれません。
(小説家 池田平太郎/絵:吉田たつちか)
2008.02

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