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勃興する者の勇気

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1503-1 慶応2年(1866)、幕府艦隊の周防大島砲撃に始まる第二次長州征伐。その際、フランス公使ロッシュは幕府軍に対し、「大島ではなく、小倉から一気に下関を攻略することを進言した」とか。今まで、「戦争勃発後、幕府海軍は先制攻撃を仕掛けて周防大島に上陸し、島民にかなり酷いことをしたけど、長州の風雲児・高杉晋作率いるオテントサマ丸(丙寅丸)の奇襲を受け、狼狽えて同士討ちをやって大損害を出して奪回された」・・・という程度の認識はあったのですが、今更ながらに改めて大島の位置を確認してみたところ、私も幕府海軍が長州征伐の最初の攻略地に大島を選んだことには少なからず疑問を持ちましたね。ただ、むしろ、私ならロッシュの言う西からの下関攻略よりもむしろ、東から大島沖を素通りして、一気に長州の脇腹、三田尻(防府市)を攻略し、そのまま陸戦隊を上陸させて事実上の藩都・山口を衝く構えを見せます。
実際に攻めこまなくても一時的に上陸させて「攻めこむぞ!」という構えを見せるだけでも十分で、もし、藩都が危険に晒されるとなれば長州藩の各戦線は大いに動揺するでしょうし、どこかの戦線から兵力を引き揚げてこれに備えるとなれば少なくともその方面での幕府軍は有利に戦えたはず。万一、長州藩がこれを放置し、たとえ一時的にでも山口が陥落するようなことになれば、それこそ満天下に幕府軍優勢を知らしめることの最高のアピールになるわけで、そうなれば日和見を続けている諸藩も「これはいかん。戦後、お咎めがあるぞ」ということになって各戦線で奮起したでしょうから、どちらに転んでも幕府有利に展開したはずです。
それに、そもそも、大島に攻めこむという時点で腰が引けている証拠ですよ。正面玄関からご丁寧に一つ一つ行くのが正攻法というかもしれませんが、そんな連中はとかく、「相手は我々の大軍を見たらそれだけで降伏してくるだろう。してくるんじゃないか。してきたら良いな」という希望的観測に満ち満ちているもので、本音を言えば、自分たちが大島を攻めている間に戦争が終わってくれたらいいな・・・だったでしょう。
この点を如実に表すのが、現地視察に行った新撰組局長・近藤勇の「幕軍の士気は緩みきっており戦えば必ず負ける」というレポートだったでしょうか。

もっとも、幕府艦隊あくまで付属品という認識で、あるいは広島方面軍の指揮下にあって自由な裁量などなかったのかもしれませんが、でももし、幕軍に高杉晋作ありせば司令部の意向などどこ吹く風で一気に敵中枢に斬り込んだようにも思えます。
これは一歩間違えれば軍部の暴走ということにも繋がる大変危険な考え方ですが、一方で、プロシアの名参謀・クラウゼヴィッツという人は「勝利の女神は女の神だから大人の円熟した愛より若者の乱暴な愛に惹かれる」ということを言っています。まあ、結局、それが上手く行くというのが勃興期なんでしょうが、その根底にあるのは「勇気」というものなのかもしれません。
(小説家 池田平太郎)2015-03

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