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江戸時代、標準語は無かった

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カラー5 江戸時代、日本には標準語は無かった。こういうと不思議に思われる方もあるかもしれませんが、でも、これは無理からぬ事で、当時は江戸時代を通して三百六十余州に割拠していたわけですから、たとえ元々は同じ言葉だった所でも三百年近くもギアナ高地状態を続けていれば言葉も違ってくるでしょう。ましてや、遠隔の地であればなおさらで、この辺り、度量衡を統一しても標準語は作らなかったというのも徳川幕府の深謀遠慮だったのかもしれません。(そういう目で見れば、幕末に日本の歴史を大きく動かした薩長同盟締結が双方の言葉に慣れた坂本龍馬ら亡命土佐人の仲介を必要とした・・・というのも頷けるような。実際、長州弁はまだしも、沖縄を別にすれば日本一難解と言われた薩摩弁を桂小五郎が理解したようには思えません。桂が同盟締結書の裏書に立会人である龍馬のサインを欲しがったというのもそういうことで、つまり、通訳が「誤訳が無い」と確認のサインをした物が欲しいと。そう考えれば、脱藩浪士は幕末のバイリンガルでもあったわけですね。)
ただ、それではさすがに不便だったようで、その不便を埋めるため、武士は謡曲を、庶民は浄瑠璃を学んだといいます。(現代では謡曲、浄瑠璃に変わってそこを埋めているのがテレビかと。)
ところが、その一方で、なぜか文章には標準語があったようで、これは武士にとっての教養の基礎とも言うべき「漢文」という物の存在が大きかったようです。つまり、「わかった」だと地域によっても階層によっても様々な言い方があるのに対し、「了承」だとそれなりの基礎教育を受けた武士ならば薩摩でも長州でも会津でもわかるわけです。その為、皆、他藩の者と会見した時は、会見後、それぞれの宿舎へ帰った後でもう一度、今日話したことを文書にして届けさせていたのだそうで、つまり、現在、我々が幕末の志士たちの動きを色々と知ることが出来るのも彼らの書簡がたくさん残っているからだとか。(後で「我が藩ではこれはそういう意味ではない」などということのないよう、共通理解出来る「文字」で確認したということだったと。)
なお、この慣習は何も江戸時代以前の武士の文化などではなく、戦後の名宰相・吉田茂は誰に学んだのか外交官時代から、その日、外国の要人と話し合った内容を必ず文面にして相手に届けるということをしていたそうで、マッカーサーにも「私はこういうふうに理解したが間違いないないか?」と絶えず確認していたとか。ちなみに、吉田の実父は土佐藩士で妻は大久保利通の孫ですから、誰かからそういう話を聞いて外交にも活かせると考えたとしても不思議はないでしょう。もっとも、それが吉田だけのことだったのか現代の外交官たちにも踏襲されているのかについては知る由もありませんが。
(小説家 池田平太郎/絵:そねたあゆみ)2016-01

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