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戦いには勢いが必要

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絵:そねたあゆみ

 私にはかねてより一つの疑問があります。
 豊臣秀吉の死後、身の程知らず(?)にも徳川家康に戦いを挑み、関ヶ原の戦いで敗れた石田三成ですが、彼は本来、文官であり、秀吉軍でも作戦担当ではなく、補給担当の参謀でした。
 秀吉としても、三成に軍功を挙げさせてやるべく、小田原征伐の際に、敵の支城、忍城の攻略を任せています。おそらく、それほど難しくもない「美味しい案件」だったのでしょう。
 ところが、結局、これも最後まで城を落とすことが出来ず、敵本体が降伏した後もまだ戦闘が続いていたという、実にわかりやすい形での「不合格」になってしまいました。
 それだけに、三成も自らに軍才は無いことをよく認識しており、その空隙を埋めるべく、島左近ら歴戦の勇将を傍らに配していました。私が疑問に思うのはここです。であれば、なぜ、関ヶ原の際には、自らしゃしゃり出ることをせず、彼ら軍事の専門家に作戦指導を任せなかったのか?と。関ヶ原での三成のまずい作戦指導は、これでもかというくらい指摘されているのですが、(その最たるものは濃尾国境で進軍をストップしたことでしょう。戦いには勢いというものが必要で、それを誰よりも効果的に使って見せた秀吉なら、実際に進軍しなくとも、「江戸まで一直線に攻め込むぞ!」という姿勢は崩さなかったはず。)、多分に結果論ということは否めない事実でしょう。
 ナポレオン時代のドイツの参謀・クラウゼヴィッツが「戦争とは錯誤と過失の連続。一つでもそれが少ない方に勝利は微笑む」と喝破したように、生命の危険がかかった戦場では卓上のゲームと違って、そんなに一方にばかり都合よく順調に進むものではないわけで、アメリカの快勝のように言われているミッドウェー海戦でも、実際には、アメリカ側も航空母艦1隻を含め約150機の航空機を失っています。(つまり、違ったのは、戦果ではなく、その後の建艦能力だったと。)
 そう考えれば、当然、家康だって、合戦中、焦った瞬間は何度もあったはず、事実、激戦の中、小早川隊寝返りを工作した黒田長政に何度も問い合わせ、最後には逆ギレされています。
 で、最近、ふと思いました。あるいは三成は幕下の軍人たちに任せていたのではないか、つまり、任せていて負けたのではないかと。彼らは部課長クラスとしては他家に知られた勇将猛将だったのでしょうが、自ら一軍を率いた経験はなかったわけで。ここら辺が、三成軍の限界だったということなのかも。もっとも、たとえ、そうであったとしても、三成は後世の、自らへの評価を甘んじて受け入れたでしょう。それが、大将としての責任であり、悲哀でもあるわけで。
(小説家 池田平太郎)2017-05

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