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血も涙もない狸オヤジ家康の真実

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0912-2豊臣秀吉の死後、徳川家康はその狡猾な本性を顕わにしそのまま秀吉の遺児・秀頼の生命もろとも豊臣家を紅蓮の炎の中に包み込んでしまうべく、一直線に突き進んだ・・・と言われていますよね。
確かに、秀吉の死後、家康に豊臣家の天下を簒奪(さんだつ)しようという意図はあったでしょうが、そのまま一直線に豊臣家滅亡にまで突っ走ったというのは少し早計に過ぎると思うんです。

人間世界の現実とは、少なからず、過失と錯誤と勘違いが絡まってくるもので、そうそう、後の世の人たちが見るほどに真一文字に進んでいくこともないわけで・・・。

まず、私が指摘したいのが、秀吉の死の2年後に起こった天下分け目の関ヶ原合戦から豊臣家滅亡の大坂夏の陣まで、15年もかかっている・・・という事実です。

これを、「15年もかけた」と見るべきか「15年もかかった」と見るかは判断の分かれるところでしょうが、注目すべきは、関ヶ原合戦のとき、家康は満の57歳だったということ。当時は、「人間五十年」と言われた時代で、実際には明治中期の日本人男性の平均寿命が42.8歳だったことを考えれば、おそらく、実際はもっと短かったと思われ・・・。

つまり、家康がまだ30代だったなら、慎重に慎重に、15年の歳月をかけ、真綿で首を絞めるように滅ぼす・・・という選択も出来たでしょうが、当時としては高齢の57歳であれば、結果を急いだのではないか・・・と。

事実、家康は、この間にたびたび倒れて、意識不明になっているといいますし、「自らの暗殺計画を口実に政権簒奪工作を推し進めた」と言われていることに対しても、政敵・石田三成からすれば、一番早くて確実な政権維持策は家康暗殺であることを考えれば、それは、「口実」などではなく、暗殺計画は実際に存在したと考える方が妥当でしょう。

つまり、病死、事故死、暗殺と、家康がこの後15年以上生きる・・・という確信があったようには思えないということです。

まあ、その辺は家康は人一倍、健康管理には気を遣っていたと言いますし、老いの執念というものの凄まじさだったのかもしれません。ただ、それでも、私には15年もかけなければならない理由がわかりません。なぜなら、それには好事例が有るからです。

それは他ならぬ、秀吉が、主君・織田信長の死後、家康を臣従させ、事実上の織田家からの政権簒奪に成功するまで、わずか4年しかかかっていないという事実です。

しかも、秀吉は少なくとも、自らの手では信長の子孫を誰一人殺していないし、子孫の誰からも叛乱も暗殺もなされず、さらに、信長の嫡孫・秀信は関ヶ原では西軍に付き、徳川方と戦ってさえいます。

これらを勘案すれば、家康には少なくとも当初から豊臣家を滅ぼす意図はなく、孫娘を秀頼に嫁がせるなど共存も模索したが、曲折あって、結果的に滅亡に至ってしまった・・と。(事実、家康は秀頼救出失敗の報に接し、涙して、これを悔いたともいう話もあります。)

家康は、豊臣家滅亡から1年もしない翌元和2年(1616年)に73歳で死去していますが、これを、大願成就したがゆえの安堵感からと見るべきか、それとも、本意と違う形になってしまったがゆえの失意からの死と見るべきかも各人の判断の分かれるところでしょう。

(小説家 池田平太郎/絵:吉田たつちか)2009.12

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