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日本の国境

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(絵:吉田たつちか)

 江戸時代の日本と言えば、国際的には鎖国で引き籠もりしていたような印象がありますよね。でも、実は、北はアイヌの反乱?を鎮圧し、植民開始。南は琉球へ侵攻、支配下に収め、東は小笠原に渡航、版図に組み込むなど、これまでで、最大に領土を拡張させ、ほぼ、今の日本の「国境」に到達したのがこの時代です。(そればかりか、それまで朝貢貿易「させてもらっていた」中国に対しても、貿易を「許す」など、引き籠もりどころか、もはや、暴れん坊将軍(笑)。)
ちなみに、周囲をすべて海に囲まれた日本人にとって、「海外」と「外国」は同義語ですが、でも、日本に地続きの国境が在ったのはご存知でしょうか?日露戦争後から、第二次大戦後にソ連に占領されるまでの40年間、日本は樺太南半分を領有しており、女優・岡田嘉子が、この国境を突破して、ソ連に亡命したことでも知られています。(なお、「日本」はその後も膨れ上がり、最盛期の大日本帝国の版図は古代ローマ帝国より大きかったとか。)
一方、面白いもので、日露戦争から間もない頃、日本もアメリカも互いに、「今、戦えば負ける。もう、10年、時を稼がなければ」と思っていたんだそうですね。日露戦争で賠償金が取れなかった日本は、勝ったとはいえ、事実上の財政破綻状態でしたから、そう思うのは当然として、一方のアメリカはなぜ、そう思ったかというと、それは、当時、日米の国境が100kmしか離れていなかったからです。こういうと、「100km?10,000kmの間違いでしょ?」と思われるもしれませんが、これは、日本が日清戦争で台湾を領有し、アメリカが米西戦争でフィリピンを領有したことから起きた現象で、つまり、両国は当時、日本領台湾とアメリカ領フィリピンで国境を接していたということです。
すなわち、たった100km移動するだけで攻め込める日本に対し、アメリカ主力艦隊は当時、まだ、大西洋側にしかなく、それを太平洋側へと回航するとなると、当時はまだパナマ運河開通前ですから、南米の南端、マゼラン海峡をぐるっと迂回して、さらにそこから地球の半分を占める太平洋を横断するか、スエズ運河経由でインド洋を横断するかして救援に赴かざるを得ないわけで・・・。財政的な負担は元より、何ヶ月もかかって、ようやく、着いても兵員は疲労困憊。ペリーの時代とは日本の実力も違っていますから、バルチック艦隊のように撃破されてしまう可能性もあり・・・。
日本もアメリカも、互いに「もう、10年」と思って、冷や汗を垂らしながら愛想笑いをしていたわけで、互いに、自分の所の現状しか見えていないとそうなるという話ですね。

(小説家 池田平太郎)2022-12

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