ドイツ人初のF1ドライバーズチャンピオンにして、最多優勝91回、チャンピオン獲得7 度などの記録を持つ F1 界の「皇帝」ミハエル・シューマッハ。彼がまだ駆け出しの頃、早くも彼の才能に目を付けたジョーダン・グランプリ・チームのオーナー、エディ・ジョーダンは、彼と長期の専属ドライバー契約に乗り出す。話は順調に進み、いざ、契約の同意書を提出する直前、シューマッハは契約書の「the」を、横線で「a」に書きかえて返してきたとか。レース本番まで、あまり、時間がなかったこともあり、ジョーダンも、それ以上、深く考えることもなく了解した。
契約後、シューマッハは期待にたがわぬ活躍をしたことから、やがて、多くのチームが彼との契約を考え始める。しかし、ジョーダン・チームにはシューマッハと交わした長期契約がある。少なくとも、ジョーダンはそう思っていた。ところが、シューマッハ側は、「契約書は(a=ひとつの) 契約に関するもので、(the=契約全体)には同意していない」と主張。裁判の結果、シューマッハは他チームへの移籍を認められ移籍。
その後も、シューマッハの快進撃は続いたことから、逆に、「鯛」に逃げられたジョーダン・チームは大損害を被ることとなった。ジョーダンは、このことについて、後にインタビューで語っている。「あれ以来、私はどんな書類も注意深く読むことにしている」と。
さて、この話、何もビジネスの世界にだけ限った話ではない。「悪魔は詳細に宿る」とはアメリカの諺だが、第一次世界大戦後のパリ講和会議の際、日本全権団の事実上のトップだった牧野伸顕は、日本の委任統治に関する条約文を見ていて、いつの間にか、そこに「if(もし)」の文字が入っていることに気づいた。わずか二文字だが、これが有ると無いとでは随分と意味が違ってくるそうで、すぐに削除を求めたところ、あっさり通ったというが、牧野は「国際会議などでは油断のならぬことがある」と述懐した。せっかく合意した条約を反故にする、とんでもない話である。
一方、牧野の娘婿、吉田茂は、逆に、第二次世界大戦後の新憲法の条文中に、同様の「悪魔」を忍ばせていたところ、しっかり、中国代表だけが気づき、修正を求めてきたとか。
我々の日常でも、うんざりするくらい長々と書かれた契約書を見せられて、「さあ、サインしてください」と言われることがあるが、本来、これは大変、危険なこと。この点、誰かテレビ関係の人が言っていたが、「いろいろな人と契約を交わしたが、その場で、じっくり、契約書を熟読したのは元プロ野球監督、広岡達朗氏だけ」と。さすが。
(小説家 池田平太郎)2024-7