元寇以前に起こった異民族襲来の一つに「刀伊の入寇」がある。1019年、「刀伊」と呼ばれる中国東北部の満洲族の一派が、賊船約50隻に約3,000人で、突如、対馬、壱岐を襲撃。生き残った島民を拉致した後、博多湾から肥前松浦にまで押し寄せた事件である。(白村江敗戦後に捕虜となっていた日本人が「唐の使者が来る」と伝えてきたときの数字が、船47隻で2,000人。使節団か海賊かなど来てみないとわからないということ。)
これを迎え撃ったのが大宰権帥・藤原隆家。藤原氏には珍しく、「さがな者(荒くれ者)」という異名を持つ、持て余し者だったというが、いずれにせよ、この危急時にこういう人物がここにいたというのは不幸中の幸いだっただろう。ただ、当時の朝廷は、信じ難いことに常備軍を保持しておらず、反乱鎮圧は在地の豪族任せだったというから、隆家も京都に援軍を乞う無駄はよく知っていたはず。おそらく、隆家以外の司令官であれば、敵の兵力も装備もわからない上は、周辺豪族らが合流してくるまで大宰府に籠る・・・という判断をしたであろう。が、このさがな者は天性の戦士だったようで、兵が集まるのを待つことなく即座に出撃。まさに、孫子に言う「兵は拙速を尊ぶ」であり、クラウゼヴィッツが言う「断固として血を流す者にはすべてが敗れる」である。ただ、相手兵力次第では、壱岐の守備隊同様、全滅した可能性も否めない。
が、戦国時代に瀬戸内海を東上してきた毛利の兵は上陸したものの船酔いで使い物にならず、そこを黒田官兵衛の奇襲に遭い敗退している。ましてや、瀬戸内海と違い玄界灘の荒波。元寇時も同様で、ようやく、上陸したと思ったら、守備隊はわずかな兵で全滅するまで戦う。元軍将兵は硫黄島攻略後のアメリカ軍同様、この先の本土での抵抗を思い、暗澹たる気分になったはず。そう考えれば、満州族はよく、さらに先の九州本土に向かおうと思ったものだと。そもそも、満州族は、どこで多くの奴隷を積んで外海を渡れるような大型船を50隻も作ったのか・・・という気はする。船というものは作って波間に漕ぎ出せば良いというものではない。
刀伊は数年前から、既に高麗(朝鮮)沿岸で跋扈していたようであるから、あるいは、拉致した中に船乗りがいたか、それともこれに困った高麗人が、「うちよりもっと良い所がある」で日本へ向かわせたか。(捕虜3名全員高麗人だったとか。)ところが、思ったより航海は大変で、犠牲も多かった割に、収穫が少なかったことで、「帰りの駄賃」で高麗を襲った。が、待ち受けていた高麗水軍によって大打撃。そう考えれば、一番得をした高麗の作演出だった・・・とまで言うのは言い過ぎか。
(小説家 池田平太郎)2025-01