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決断の背景

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0611_1昭和34年(1959年)8月14日・・・、東急の創始者にして、強引な吸収合併を繰り返したことから、「強盗慶太」と呼ばれた五島慶太翁が亡くなったとき、翁の晩年、二人の人物が五島翁に食い込んでいた。

ひとりは、小佐野賢治。もう一人は、ホテルニュージャパン火災で悪名を高めた横井英樹。

五島翁逝去で名実共に東急のTOPとなった翁の息子の五島昇氏(元日本商工会議所会頭、故人)は、この二人に対してどのような処遇をする決定を下したか。

五島昇の決定は「小佐野は残し横井だけを切る」というものでした。

このとき、東急内部には、「この際、小佐野も切るべきだ!」という声もあったと言いますが、五島昇は、その声を抑えて、敢えて、小佐野は残した。

このときの、「小佐野と横井」の差は一体、何だったのか?

五島昇は1916年8月、東急財閥の御曹司として誕生しています。

小佐野は、1917年2月、山梨県甲州市勝沼町に住む家さえない極貧の小作農の長男として誕生。

横井は、1913年7月、愛知県中島郡平和町(現・稲沢市)の貧しい農家にて誕生。

つまり、五島昇と小佐野は同学年であり、小佐野と横井は同じような生い立ちから、徒手空拳でのし上がってきたという共通体験を持っていたと言えるわけです。

このとき、五島昇と小佐野賢治は同学年の43歳、まるで違う生い立ちをもった二人の同級生はお互いをどうみていたのか・・・。

私には、二人の間には、何か微妙な友情があったように思えるのです。

横井英樹のみは3つ年上の46歳・・・、三人ともほぼ同世代と言ってよかったでしょう。

ただ、それが、片方は従来通り、出入りを許され、もう片方は出入り禁止となった。

結論を言えば、それが「小佐野は一個の小佐野であったが、横井は一個の横井ではなかった」ということなのだと思います。

小佐野は、ロッキード事件に連座したことで、どうしても、「政商」としてのダーティなイメージが強いようですが、一方で、五島慶太翁もさじを投げた会社の立て直しに成功するなど、会社再建に対する手腕には翁さえも一目おいており、別に東急に寄生しなくとも十分に一個の事業家として存在していたといえるでしょう。

それに対し、横井は、同じく、白木屋乗っ取りなどで総会屋を巻き込んだ、その手段を選ばぬ抗争劇やその結果として、自ら、暴力団の襲撃を受けるなどというダーティな面は小佐野と同様だったのかもしれませんが、ただ小佐野が東急とは別個に会社を持ち、東急とは同盟関係に近い意識を持っていたのに対し、横井はあくまで、五島慶太の名を利用し、大東急に寄生することで利益を得ようとする寄生虫に過ぎなかったようです。

五島昇の目は間違ってなかったようで、小佐野はロッキードに連座したものの、山梨交通を始め数多くの倒産寸前の会社を立て直し、かつ、「人切り」をしない事業家として、その評価は没後さらに高まっていると言われるのに対し、横井はホテルニュージャパン火災では、数々の違法運営により、多くの犠牲者を出し、業務上過失致死傷罪で禁固3年の実刑判決を受けるに至ったことからも明白であったろうと思います。

ちなみに、

小佐野賢治は1986年死去。享年69歳。

五島昇は1989年死去。享年72歳。

横井英樹は1998年死去。享年85歳

(文:小説家 池田平太郎/絵:吉田たつちか)

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