(絵:吉田たつちか)
日本のパン食は戦国時代にキリスト教の宣教師が持ち込んだのが最初とされています。そして「パン」はポルトガル語なんです。日本はその後鎖国し、オランダ以外の西洋諸国との関係を断ちますが、おもしろいことに「パン」という発音はオランダ語の「ブロート」にならず、「パン」のまま。明治になっても太平洋戦争後になっても英語の「ブレット」にならず「パン」のままでした。きっと発音しやすく覚えやすかったんでしょうね。
明治時代になって、パンは日本の食文化に入ってきますが、まずは「アンパン」などお菓子として食べていました。
主食としては太平洋戦争後になるのですが、ここにある陰謀論があります。「戦後、GHQが学校給食などでパンと牛乳を与え、日本人を餌付けし、食から日本を支配しよう」としたというもの。いわゆる『アメリカの小麦戦略』です。
ぼくも一時期、そんなこともあったのかなと思ったこともあるのですが、いろいろな論文や資料を読んでみると、学校給食などは、アメリカ側が「米と味噌汁」を提案しており、日本側が「いや、パンと牛乳(脱脂粉乳)にしてほしい」と、アメリカの提案を拒否しているのです。つまりまったく逆。
アメリカ側が、米の給食を提案したのには理由がありました。当時アメリカ産米の最大の輸出国は日本だったのです。
前述した『アメリカの小麦戦略』で、「日本人の米食を減らしパン食を増やすことで日本人を食から支配する」というのが本当だとすれば、アメリカ産米最大のお客様を自ら減らすということになります。アメリカ側にまったくメリットがありません。
また、あまり知られていませんが、アメリカから日本への学校給食への贈与は、当初、脱脂粉乳と綿花のみでした。綿花は学童服を作りなさいということでしたが、日本は財政難、学童服への加工費を捻出できず辞退しています。
次にアメリカは学校給食用にアメリカ産米を提供しようとしますが、日本側が断り、小麦を要求します。実は米を炊くには、各学校に大きな釜などの施設が必要ですが、終戦後の鉄不足で大釜を用意できません。炊いた後の釜洗いも大仕事。
しかしパンならば、どこか一か所で大量に作って配ればよく、食器もほとんど汚れません。ご飯よりパンの方が合理的だったのです。
さらに1957年、アメリカはアイゼンハワー大統領の裁定で、小麦と共にアメリカ産米を資本市場で開拓しようと計画し、日本政府に日本人向けの品種や品質の、アメリカ産米の日本人の反応などの調査を行いたいと通達。
これに対し日本政府は拒否しています。数年前から日本産米が豊作続きだったからです。
日本政府は終戦後から「粉食奨励政策」を取っていました。これは日本が米や麦が自給できないのであれば、安価な輸入小麦を使って飢えないようにしようというのが、日本政府の方針でした。
どうも戦後「アメリカは日本人の米食を減らし、パン食を多くして、食から日本を支配しようと陰謀をはたらかせ、その作戦は成功した」というのとまったく逆で、日本は、学校給食では米食を進めるアメリカを断り、むしろ日本政府が麦を求め、パン食など粉食を勧めていたのです。
さらにアメリカから贈与された小麦はパン用のものではなく、うどんやラーメン用のもので、学校給食用の小麦はカナダ産の小麦にアメリカ産小麦をまぜて使われていました。
ただし当時の日本人が好んだ粉食はパンではありませんでした。うどんやラーメンだったのです。パンは戦後飢えていた時代の「代用食」に過ぎなかったのです。
よって50年代後半に米が豊作になると、多くの人がパン食を辞めてしまい、そのため数万件のパン屋が倒産しています。
アメリカによる『小麦キャンペーン』というのは実際にあり、全国で「キッチンカー」という料理設備のついた車を使って、農村部などに小麦粉やフライパンを使い、栄養を考えた料理を指導して回ったのです。
キッチンカー事業は、アメリカ農務省海外農業部(FAS)の拠出金をもって、厚生省の外郭団体であった日本栄養協会によって運営されました。
これは日本政府の「粉食奨励政策」にも合ったものでした。当時栄養の知識がなかった人々にとってもこれはありがたいことでした。
さてまとめましょう。なぜ「学校給食にパンはGHQの陰謀」という説が出てきたのでしょう?
それは1978年に『NHK特集 食卓のかげに星条旗~米と麦の戦後史~』という番組が放送され、翌年にはこの番組を元にした『日本侵攻 アメリカの小麦戦略』という本が出て大ヒットしてからなのですが、この番組や書籍は、関係者のインタビューに基づくもので、外交文書などは調べていなかったようです。ようするにデマを流しちゃったのが、いまもそう信じられているわけです。
(文:巨椋修(おぐらおさむ) 食文化研究家)2022-12