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賢兄愚弟賢弟愚兄・・・いずれが是か非か

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0710-9かつて、ナポレオンを評して、「人格はともかく、能力の点では、あの男は、ウラル以西ではカエサル以来の物を持っていた」と評した人がいたという。
では、ウラル以東ヒマラヤ以北・・・、いわゆる、東洋世界ではどうだろうか。
一人は、そのナポレオンをして、「予の壮挙もあの男の前では児戯に等しい」と言わしめたモンゴルの英雄、チンギス・ハーンであろうか。
では、もう一人、カエサルに当たるのは・・・というと、三国志で有名な魏の武帝、曹操が思い浮かぶ・・・。
が、中国三千年の歴史には、あまり、知られていないが、その曹操を凌ぐほどの人物がいるのである。
同年代中国の歴史年表をひもとけば、前の方、古代王朝に位置する部分に、「前漢」と「後漢」という二つの漢王朝があるのに気が付く。
その、「前」の方の漢王朝を創始した劉邦という人物は、若い頃から、遊興放蕩の行いが強く、それに対し、その兄劉仲はまじめで実直、農作業にいそしむ親孝行な人物だったという。
従って、母はいつも、劉邦に向かい、「少しは兄さんを見習ったらどうだい!」と罵倒していたとか。
ところが、劉邦は、無頼の徒に身を投じた後、時運に乗り反乱軍の頭目となり、ついには、楚の項羽を破って、中国全土を統一し、漢帝国の皇帝となってしまった。
後に、母に、「どうです、兄さんと私とどっちが偉かったですか?」と聞いたという。
その後、さしもの隆盛を誇った漢王朝も紀元8年、王莽という人物により、帝位を簒奪され滅亡するが、王莽は古の政治を理想とし、現実を無視した政策を推し進めたことから、国内各地で叛乱が頻発するようになり、時代は再び、乱世となった。
このとき、たまたま、漢王朝の創始者・劉邦と同姓の者に劉秀という若者がいたのだが、この若者は実直で温和、質素で農作業に熱心な性格であったが、それと対照的に、その兄、劉えんは家業には手を貸さず、遊侠無頼の徒に交わることを好んだ。
22年冬、その劉えんが挙兵した。
最初は思うように兵が集まらずに苦しんでいたが、慎重な性格と評判であった弟の劉秀が参加すると、蜂起軍に参加する者が次第に増え、ついには、王莽の軍を撃ち破り、一躍、兄弟・・・、特に、劉秀の名は高まった。
その後、兄弟の名声の高まりを恐れた勢力により、劉えんが殺害され、このとき、劉秀にも危険が迫ったが、劉秀は巧みにそれをくぐり抜け、苦労の末、ついには、自立を果たし、自ら皇帝を名乗る。
これにより、中国大陸は光武帝劉秀によって統一されたのである。
光武帝は、前に滅亡した漢王朝皇帝家の劉家とたまたま同姓だったことから、自らの王朝を、漢王朝の復興政権と位置づけ、国号も「漢」と号したが、後に、これを区別するために、「前漢」、「後漢」と称されるようになった。
これが、後漢王朝の始まりである。
無頼がいいのか、実直でいいのか・・・。
兄が良いのか、弟が良いのか・・・。
その答えは、容易に見出せそうもないが、ただ、無頼派の代表、劉邦は、帝位についた後、功臣らの粛正に動いたことで、その治世に暗い影を落としているが、実直派の代表劉秀はそういうことはなく、逆に、必要に迫られたとはいえ、度々、奴隷解放令などを公布して、人身売買を厳しく規制するなど、極めて、ヒューマンな政策を実施し、また門限を守らなかったことで、家臣から、二度も城に入れてもらえなかったなどという微笑ましい逸話も残している。
光武帝劉秀は、高祖劉邦に比べると、日本での知名度は低いものの、中国三千年の歴史の中でも、第一級の人物として、玄人筋では評価されている人物である・・・。
(文:小説家 池田平太郎/絵:吉田たつちか)2007-10

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