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女の幸せは平和に結着する

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(絵:吉田たつちか)

 日本で最後に空襲警報が鳴り響いたのはいつ?と聞かれれば、多くの人が太平洋戦争終戦の昭和20年(1945年)とお答えになるかと思います。でも、実はそれは誤りで、正確にはその5年後の昭和25年。こう言うと、「?」と頭をひねられるかもしれませんがこの年に勃発した朝鮮戦争では、米軍機は福岡空港から飛び立っていたこともあってか、はたまた、単に方向を見失ったのか、ソ連のミグ戦闘機が博多(≒福岡)に飛来したことがあったらしく、市内には当時、米軍の空襲警報が鳴り響き、それを撃ち落とそうとする高射砲の音も聞こえたそうです。(さらに近い対馬では砲声が聞こえたとか。)翌日、早速、福岡県庁からは灯火管制、防空壕への避難などが指示されたそうで、まあ、その辺は、つい、5年前までやっていたわけですから、みんな、手慣れたものだったでしょう。が当時の日本人にとって、それを再びやらねばならないということは悪夢以外の何ものでも無かったわけで・・・。
 ちなみに、終戦直後、「博多湾にソ連軍が攻め寄せている」とか「いや、米軍が」から、「朝鮮が」などというデマが飛び交い、果ては、「敵兵は上陸すると女たちを一人残らず犯し、男たちを去勢して根絶やしにする。その証拠に、県庁内にある総監府がいち早く女子職員に休暇を与え、逃げさせたではないか」といった無責任な噂まであったそうです。今となっては、一笑に付せる話でしょうが、元寇の時、モンゴル兵は女子供の手のひらに穴を開けて、そこに紐を通して、連れ去った・・・などという話も伝わっていましたから、当時の人たちには恐怖以外の何ものでも無かったでしょう。怯える民衆は噂に翻弄され、街道という街道は避難民で溢れ、真夏の藪蚊に襲われながら、神社の境内で野宿する人々の姿があちこちで目撃されたとか。
 そして、言うまでも無いことながら、避難民たちの多くが、老人、女子供で構成されていたことは容易に想像がつく話で内務省もそれを意識してか、「不法将兵には最後まで抵抗し、かみつくか、ひっかくか、肩章をもぎとるか、証拠となるべきものを残すこと」などという通達を新聞に掲載させたそうですが、かえって不安を煽っただけの結果になったと。
 女たちにしてみれば、心細い限りで、こんな時、頼りにしたい夫や息子はどこか遠くの戦地に送られて、生死さえも定かでは無い。「女の幸せは平和に結着する」とは、愛息戦死の報を受けたときの柳原白蓮の言ですが、これは、当時の女性すべてに共通する、偽らざる実感では無かったでしょうか。(小説家 池田平太郎)
(小説家 池田平太郎)2022-10

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