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独眼竜ダヤンの遺言を軽視するイスラエル

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(絵:吉田たつちか)

 原爆投下から間もない頃に撮影されたことで知られる昭和28年(1953年)公開の映画「ひろしま」。その中で、被爆した父の姿にショックを受けて建物から走り出た幼い妹を、兄が一拍、間を置いて追いかけたところ、そのまま生き別れになってしまった・・・というシーンがありました。ちょっと、目を離したら永別という話ですね。もちろん、今もそういう話を聞かないわけではありませんし、このシーン自体もフィクションなのでしょう。が、と言って、それほど過剰演出な話というわけでもありません。
 私も、1960年代頃までは、夕方遅くまで遊んでいると、「人さらいが来るぞ」などと言われましたし(「人さらい」と言う言葉が死語になっただけ、良い時代になったと。)、さらに昔は、赤子を田の畔に置いて農作業をしていたら、鷲や鷹が飛んできて、そのまま掴んで、どこかへ飛んで行ってしまったと・・・いうようなこともあったようです。親が気づいて、慌てて、追いかけたところで、追い付くはずもなく。実際には猛禽類の餌になったのでしょうが、「あの子は、お寺の門前に落とされ、そこで育てられて弘法大師空海になった」という伝説にこそ、諦めきれない親たちの無念さが潜んでいるような気がします。
 たとえ、動物も含めた誰かが介在しなくとも、子供にとっては知らない街はどこも同じような家ばかりで、大げさでなく迷宮。そのまま、永別などということもあったようです。(事実、松本清張の叔母は広島の猿猴橋の上でいなくなり、家族皆で「夜っぴきで捜した」が「とうとう、どこへ行ったかわからんように」なってしまい、それきりだったのが、15年ぐらい経って、突然、炭鉱夫の女房になって皆の前に現れたということがあったそうです。)
 ましてや、人口100万を超える世界有数の人口稠密都市「江戸」ともなれば、迷子に加え、誘拐、捨て子も珍しい話ではなく、これらの子供は、一応、発見された町で保護養育されることになっていたのですが、その費用は町地主負担。であれば、寄る辺ない子供たちが歓迎されるはずもなく、中には、その街で扶養され、養子にもらわれて行く者もあったそうですが、多くが虐待され、町から逃げ出すように仕向けられたり、遊郭や奴隷労働に売り飛ばされたりということがあったのではないかと。
 その状況に徳川幕府が重い腰を上げたのが、8代将軍吉宗の頃。(それ以前は、支配層は関心がなかったということ。)幕府は、「満よひ子の志るべ(迷い子の標)」という庶民向けの迷子告知石標を設けますが、これが、なかなか実効があったそうで、涙の再会が多々あったそうです。それでも、明治になって、現在の交番制度が整備されても、迷子はなかなか減らず、迷子石標は明治10年頃まで増設されていたと言いますから、江戸が、都市というより、「雑多な人間の集合体」であったということがわかるでしょうか。 

(小説家 池田平太郎)2023-11

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