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 お釈迦さまと食べ物の関係って?

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(絵:吉田たつちか)

●なんでも食べたお釈迦さま
 仏教の開祖釈迦は、元々現代のインドとネパールの国境付近にあった小さな国の王子さまでした。
 小さな国とはいえ、王子ですから豪華な食事や美しい女性に囲まれる優雅な生活をしていたといいます。そして19歳で結婚、息子も授かります。
 釈迦が生きていた時代は、紀元前5~6世紀ころ。このころのインド食文化は、ヨーロッパよりよほど豊かで進んだものでした。
 コメ類、ムギ類、豆類やクリはもちろん、それらから作るチャパティやナン。肉類は牛、水牛、羊、山羊、鹿や豚、イノシシや、他にもいろいろな野獣や野鳥たち。
 そして釈迦の時代からはるか20世紀後に、ヨーロッパ人が大航海時代といわれる時代に、インドにやってくるのですが、インドにはすでに、ヨーロッパ人が求めた香辛料がありました。それにバター、チーズ、ヨーグルトといった乳製品、もちろん豊富な果物もありました。
 しかし釈迦は、そんな豪華な料理も妻子も捨て、29歳で出家してしまうのです。
これまで王子さまであった釈迦は、贅沢三昧ができましたが、こんどは厳しい修行の身の上、食べるものは托鉢、つまり各家の前に行ってお経を唱え、食べ物を施してもらい、それをありがたく食べていました。
 托鉢ですから、コメもムギも野菜はもちろん、肉も「自分のために殺されるのを見た肉」「自分のために殺された肉」「自分のために殺された疑いのある肉」以外はありがたくいただいていたんです。つまり釈迦は、基本なんでも食べていたんですね。


●釈迦の悟りは食べ物と大関係がある
 何度も断食や節食などの苦行を行いながらも、一向に悟れないでいた釈迦は、ある日菩提樹(ぼだいじゅ)の下で座禅を組み、例え命が絶えても、悟ることができるまで食を絶つ決意をします。
 さて、ここからは世界を代表する宗教者の「悟り」のシーンなので、人によっていくつかの解釈と表現があるのですが、これから述べるのはその一説。
 釈迦は長期間の断食を続け、体はガリガリに痩せてしまいます。それを見た村娘のスジャータは「このままじゃお坊さまが死んでしまう」と、ミルク粥を差し出したところ、釈迦は苦行を放棄し、ミルク粥を食べてから悟りを開いたというお話です。
もし村娘スジャータがいなければ、釈迦は悟りを開けずそれどころか、死んでしまっていたかもしれません。ある意味、一杯のお粥が若い修行僧を後の大宗教家へと導いたのかもしれません。たかがお粥と侮るなかれですね。

●釈迦の死と食べ物の謎
 悟りを開いた後の釈迦は、弟子や民に自分の教えを伝えるようになります。釈迦は80歳で亡くなるのですが、釈迦が最後に食べたのは、チュンダという鍛冶屋さんの家で「スーカラ・マッダヴァ」という料理です。この料理を食べた後、食中毒を起こして亡くなったとされています。80歳でした。
 「スーカラ・マッダヴァ」とは、どのような料理なのでしょう? 「スーカラ」とは豚肉という意味、「マッダヴァ」とは柔らかいという意味ですから、そのまま解釈すれば「柔らかい豚肉」を食べたということになります。
 これには別の解釈もあって「豚が好む柔らかいもの」で、それは豚が大好きな土から掘り出すトリュフのような、キノコ類のごちそうだったという説もあります。
 仏教の開祖釈迦は、身分に関係なくあらゆる人から托鉢を受け、提供された料理はなんでも食べていましたが、紀元前1世紀くらいになると、菜食主義の台頭やヒンズー教の影響などで、肉食を罪悪視する経典まで作られるようになりました。
 仏教が中国を経て日本に伝わると、日本独特の精進料理が作られるようにもなったのです。
(巨椋修(おぐらおさむ):食文化研究家)24-03

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