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島津斉彬の譲歩引き出し戦略

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11-06-3 幕末の名君として知られる島津斉彬という人物ですが、彼は愛弟子である西郷隆盛の後年の活躍から、少し、神格視されすぎている傾向があるようにも思います。

一例を挙げると、斉彬は、安政の大獄に対して、局面打開のために軍事力をもっての形勢逆転を企図しましたがその決断などには、少し疑問を持ちます。あの時点では、遅かれ早かれ、斉彬にも何らかの処分が下されたでしょうから、彼としては他に手がなかったといえるのかもしれませんが、それにしても・・・と。

まず、斉彬には勝算があったのか?ということです。兵力を率いて東上したとしても、途中の彦根には敵の大将である井伊直弼の井伊家が控えているわけで、直弼という人の性格からして、また、武士というものが本来、戦闘集団であることを建前としていた以上は、「はい、どうぞ」ということにはならなかったと思います。おそらく、直弼は幕府大老として、諸大名に出陣を命じ、かつ、幕府兵力を動員するでしょうから、精強でしられる島津軍

も迂闊には手を出せない・・・。となると、島津軍は、まず、京都で朝廷を押さえる挙に出たと思いますが、すぐ傍にいる井伊家がこれをみすみす指をくわえて見過ごすはずもなく、天皇はむしろ井伊家が保護下に置いたでしょう。

その後、直弼としては島津軍に正面切って決戦を挑む、あるいは、そのまま薩摩に攻め込むなどというような愚かな策は採るはずもなく、斉彬が出兵した後に、斉彬と不仲の実父、斉興にお家安泰と引き換えに斉彬を廃嫡させればいいわけで・・・。島津軍は精強とはいえ、孤立無援のまま、立ち枯れするように壊滅したでしょうか。

以前、誰だったか、「大塩平八郎の乱の時点で、西国雄藩のひとつでも立ち上がっていたら、幕府は倒れたのではないか?」という説を唱えておられましたが、私はこの論には否定的です。

大国とは、ある日突然、衰えるのではなく、徐々に徐々に衰えていくものからです。その意味では、何だかんだ言っても、大国のその底力は侮りがたい物があるでしょう。(老いた大英帝国が新興国ドイツの挑戦を二度にわたって跳ね返したことや、古代ローマ帝国が東西分裂した後も、たびたび、西ゴート族の侵攻を跳ね返したことなどがその顕著な例でしょうか。)

おそらく、斉彬も、本気で武力出兵を考えていたわけではなく、相手から譲歩を引き出すための手段として武力上洛を匂わせていたのだろうと思います。だからこそ、鹿児島城下で出兵のための練兵を繰り返していたのではないかと。つまり、ポーズとして・・・。

この辺は、井伊と島津の虚々実々の駆け引きだったと思いますが、「討って出るぞ!」を匂わせて譲歩を引き出す以外に、斉彬に活路はなかったでしょう。

もっともこれは、関ヶ原の戦い直後に島津氏が採った戦略でもあり、その意味では、島津氏の伝統的な譲歩引き出し戦略だったとも言えるでしょうが、相手がこれに乗ってこなかった場合、出兵せざるを得ないということになってしまうのではと・・・。

(小説家 池田平太郎/絵:吉田たつちか)2011.06.01

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