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学年不要論

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絵:そねたあゆみ

 昨今、国立大学はその使命を終えたなどという声が聞かれるようですが、そもそも、偏差値というもの自体、「如何に高い平均点を取るか!」ということに重点がおかれた考え方で、わかりやすく言えば、国語は0点でも、算数なら160点とれる子も、下限が0点止まりである反面、上限も100点止まりなのですから、いくら一芸に秀でていても平均では50点となるわけです。これでは、一芸にのみ秀でた者、もしくは教科以外のことに秀でた子供というのは多くが「落ちこぼれ」の名の下に否定される構図が出来上がってしまいます。結果、皆、得意分野を殺し、不得意分野を補充するという、誰もが平均点が取れる画一的な子供として量産されることになったわけです。
 確かに限られた予算で早急な人材育成を図らねばならなかった明治初期は、少数のエリートに優先的に教育を施さねばならず、また日本国民の知識の底上げという点では役に立ったかもしれませんが一方では規格からはみ出す者には、容赦なく、「落ちこぼれ」というレッテルを貼って、十把一絡げにベルトコンベヤーの外に置くということにも繋がったように思います。(いつの時代も、教師にとっては、右と言えば、何も考えずに右を向ける生徒こそが、もっともいい生徒であった・・・とは言い過ぎでしょうか?)しかし、明治維新から150年が経ち、特にこの10年くらいは選択肢が増えた教育を受ける側と、教育機関自体の多様化、そして何より、足音もなく近づきつつある少子化というものを考えたとき、もう少し柔軟な物に変えてもいいように思います。
 その意味で、中でも私が特に疑問に感じているのが「学校」よりもむしろ、「学年」です。理解していようがいまいが、皆一様に1年で打ち切ってベルトコンベヤーに乗せて上へ上げてしまうというのは、いかにも乱暴な話ですよ。同じことを学んでも国語は1年で理解するけど、算数は6年かかる子供もいるわけで。結果、わからない子供はわからないままに次の学年に進んでしまうことで、余計わからなくなり、学習への意欲を失う。この弊害を改めるためには、学年制をやめて単位制にすべきで、無論、判断能力が低い子供に単位を選択させるのでは無く、教師が客観的に判断し、「この子は算数はもう一年」というふうに割り振ればよく。同じ年の子供とのふれあいがなくなるというのなら、「組」というものは維持したままの単位制とし、その授業が終われば、それぞれの組へ帰って行くなどの助長補短策を講じればいいのではないでしょうか。
(小説家 池田平太郎)2018-05

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