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常山の蛇

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07-06-2太平洋戦争は、日本から見ると、「すわ、開戦!」となった後、一斉に太平洋に散らばる戦略的要衝の島々を占拠していった・・・つまり、戦線を拡げていったように見えるが、これを、攻めるアメリカの側から見ると「すわ、開戦!」と同時に、主城の防備を強化する為に太平洋に散らばる島々に砦を配して、防御を固めたと言う風にも見えるでしょう。
さしずめ、天守閣は東京、本丸は関東、二の丸は本州、三の丸は九州・四国・北海道、硫黄島や沖縄などは掘り割りの外に突出した出丸といったところだったでしょうか。
つまり、アメリカからすれば、日本という城を落とすには、まず、太平洋中に散らばった砦を一つ一つ潰しながら、出丸から三の丸、二の丸・・・そして、本丸へと進む「攻城戦」だととらえればいいわけ。
となれば、籠城戦というものの要旨は、まず、第一に、「援軍が来る当てがあるかどうか?」ということですが日本にとっての援軍と言えば、ドイツしかなかったでしょう。
実際に、昭和16年11月5日の御前会議で決定された太平洋戦争開戦の際の「帝国国策遂行要領」を読み解いていけば、そこには、徹底して「アメリカには単独では勝てない。ドイツが英ソを屈服させてくれれば、アメリカは単独で戦うことになる為、戦意を無くすであろうことを期待する。」ということが書かれていたという。
じゃあ、ドイツが負けたらどうするの?ていうか、ドイツは勝てるの?ていうか、「期待する」って、それ何?という疑問には、敢えて触れないとして、次に、では、籠城戦を戦う上での要諦とは何か?と言えば、それ即ち、砦同士が有機的に結びつき侵入してきた敵を袋だたきにするという点にあったでしょう。
であれば、当然ながら日本側としてはその前提として、末端の砦に栄養を運ぶべき補給路が、本来、毛細血管のように張り巡らされてなければならないのだが、(これこそが太平洋戦争を戦っていく上で、もっとも必要だったことなのでしょう。)この点で、ご承知の通り、残念ながら、日本軍には補給という発想がまるでなく、これでは、攻める側から見ればぽつんぽつんと、そこに点在する砦を、ひとつひとつ各個撃破していけばよく、これでは、まさに何をか言わん・・・だったかと。
日本軍は、軍政・軍制という点で、日露戦争以来、作戦や砲術・戦艦というものが軍の主流であり続けたことから、料亭の女将が、所属部課によって、その軍人の将来性を判断し、ツケを加減したと言う話からも窺い知ることができる通り、予算会議でも、どれほど戦局が悪化しようとも、いや、むしろ、悪化すればするほど、作戦課が予算の大半を持って行き補給は極端に軽視されるという。
その結果、本来であれば、これらの砦に栄養を運ばなくてはならない補給が、ろくに護衛も無い裸同然で物資を運搬せねばならず、となれば、当然、次々に撃沈されていくということになってしまい、砦に籠もる将兵を飢餓地獄に落としたばかりか、主城を守る手足となるはずの砦を無為に失うということにも繋がり、またもや、一層の戦局の悪化を招くという悪循環を招いたと言えるでしょう。
孫子の一節の中に、「常山の蛇」という言葉があります。
「よく兵を用うるものは、たとえば卒然の如し。卒然は常山の蛇なり。その首を撃てばすなわち尾至り、その尾を撃てばすなわち首至り、その中を撃てばすなわち首尾ともに至る。」
「常山」という、河北省曲陽県にある山に棲む、素早い動きをすることでしられた伝説上の大蛇の話ですが、「頭を攻撃されると尾がこれを叩き、尾を叩くと頭が噛みつく、ならばとばかり、胴体を叩くと、頭と尾で反撃する。」ということで、よく、「理想の組織」のたとえとされてきた話ですが、太平洋戦争とは、本来、戦う以上はこういう風に戦うことを求められた戦いだったのではないでしょうか。

(文:小説家 池田平太郎/絵:吉田たつちか)2007-06

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