(絵:そねたあゆみ)
●地方下級武士の江戸滞在記
日本人にとって『心の故郷』といえる時代は何時代でしょう? 戦前や明治時代では最近過ぎるように思えます。かといって飛鳥時代や平安時代だと遠すぎるかも知れません。
『時代劇』と我々がいう場合、そのほとんどが江戸時代を指します。明治時代も、昔でありいまと全然違う時代なのですから時代劇といってもいいはずなのですが、明治時代のドラマを時代劇というのは、何か違和感があります。
やはり我々日本人にとって、心の故郷といえる時代は江戸時代なのではないでしょうか?
270年続いた江戸時代は長く、それぞれの時代背景があるのですが、幕末に生きた、そして江戸に滞在した地方の下級武士の食生活にスポットを当てたいと思います。
主人公は酒井伴四郎、30石取りの紀州藩士です。伴四郎は筆マメであったらしく176日の紀州藩江戸屋敷での生活を日記に残し、貴重な資料となっています。
伴四郎が残した日記は、現代でも評判でテレビドラマ化や漫画化されていたりもします。
伴四郎は28歳、江戸屋敷内の長屋に上司でもある叔父と同僚の3人暮らし。高給取りではない彼らの食事は当然自炊となります。
男子、まして武士は厨房に入らず? とんでもない! 安くておいしいものを食べるために、彼らはせっせと食事を作っておりました。
●江戸ではごはんを朝に炊き、大阪では昼に炊く食文化
江戸の人たちは朝にごはんを炊くのが普通ですが、大阪など上方ではごはんはお昼に炊きます。伴四郎たちは紀州、いまの和歌山の人ですから大阪文化圏ということで彼らはお昼にごはんを炊くのです。
現在は一日の中心の食事は夜ですが、伴四郎たちはお昼ごはん。夜と朝はカンタンに済ませていたようです。
ちなみにヨーロッパなどでも、一日の中心になる食事はお昼で、朝と夜はあっさりしているようです。
お昼ごはんが中心といいつつ、そこは下級武士、なかなか高い食材は買えずイワシなど安い魚を買ったりとやりくりに苦労していたようです。ただ、今と違って炊飯器がない時代。伴四郎たちはごはんを上手く炊けず、焦がしたりおかゆになったりといった失敗談も、日記に残っています。
お昼に多めに作って夜や翌朝に食べたりするのですが、伴四郎には強敵がいました。上司で叔父の宇治田平三です。日記には「叔父さま」と書かれているのですが、伴四郎が楽しみにとっておいた料理を叔父さまが、いつの間にか食べてしまうのです。
伴四郎はそのたびにくやしがったのが、日記に描かれています。
●江戸の外食
そのころの江戸は世界でも屈指の大都会。町をあるけば多くの屋台や店がありました。
伴四郎が好んだのはソバと寿司。どちらも江戸のファストフードです。「もり」や「かけ」は16文、今の値段で300~400円くらいでしょうか? いまの立ち食いソバ屋とあまり変わりませんね。
これに天ぷらをつけて天ぷらそばになると、1300円くらいとずんとお高くなります。
また、ちょっとしたお菓子をよく買い食いをしています。幕末期ともなりますと、砂糖が庶民の中にも入ってきて、江戸の人はいろいろな甘味を楽しんでいたのです。
料理にも、砂糖を多く使うようになり、江戸や大阪、長崎など都市部の料理は甘いのが特徴となっていきました。
●薬代わりに豚肉を
江戸時代は日本の歴史上もっとも肉を食べなかった時代です。そのせいか江戸時代初期からどんどん平均身長が低くなり、幕末期がもっとも身長が低い時代となりました。
しかし幕末はペリー来航などの影響を受けてか、少しずつお肉を食べるようになってきました。伴四郎も体調を崩したときなど「薬の代わり」と称して豚肉を食べたことが日記に残っています。
この時代、あまり肉を鉄板や直火で焼く習慣がなかったので、おそらく鍋で煮たのではないかと推測できます。
この時代、最後の将軍となった徳川慶喜は豚肉が大好きで「豚一(とんいち)さま」と陰口をたたかれるほどでした。時代の変化が下級武士である伴四郎の周囲、いえ、食べ物にも着々とあったようです。
伴四郎はやがて和歌山に戻り、第二次長州征伐の一員として幕府軍と戦います。幸い戦死は免れたのですが、やがて幕府は倒れ(紀州藩は最後の最後に討幕軍、いわゆる官軍につくのですが)、明治になってからの伴四郎がどう生きたのかはいまもって不明です。
(文:食文化研究家 巨椋修(おぐらおさむ))2018-10