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金田一先生の事件簿

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(絵:吉田たつちか)

 金田一京助って人がいます。長男の春彦、孫の真澄、秀穂と、親子三代に渡る国語学者で、それだけ聞けば謹厳実直、お堅い性格のように思えますが、この方、なかなか、エピソードに事欠かない人物で、結婚式の日付を間違えて、まったく知らない人の結婚式に参列。ご馳走食っているときに気づいたとか。一方、当然学者としても一流で、中でも、アイヌ研究では第一人者。言葉もわからぬアイヌ民族の集落に行ったとき、どうするか?何もしないんだそうです。何もせず、しばらく、そこに佇んでいると、遠巻きに見ている村人の中から、やがて、子供が近寄ってくる。そこで、地面に目とか口とかの絵を書くと、子供たちがその名前を口々に言う。それを繰り返していて、突然、不明な絵を書くと、皆、首をひねりながら、現地語で「何?」と言う。この、「何」という言葉を知れば、もうこっちのものだそうですね。後はそれを使って、どんどん、現地語を尋ねていけばいいんだそうです。
 その金田一がアイヌを訪れたときに知り合ったのが、当時、旭川女学校の一年生・知里幸恵というアイヌ人の少女。「何で、ユーカラなんか調べているの?」と聞いてきたので、「これは叙事詩といって、人類が文字のない昔、誰が作ったともなく口々に伝わって、民族の歴史ともなり、文学ともなり、聖教ともなったもの。ヨーロッパではギリシャ人、アジアでは印度の釈迦族がもっているだけ。それが今、老人の死と共に消えてしまおうとしている」と言うと、目に涙を溜めて、「私は、一生を祖先が伝えてくれたユーカラの研究に捧げます」と言い切ったとか。
 そして、5年後の大正11年、女学校を卒業した幸恵嬢は、「神々のユーカラ」十三篇をローマ字で記した物と、日本語の対訳を並べた物の二冊のノートを持って上京。この話を、民俗学者でもあった渋沢敬三が聞き、十数日後、きれいにタイプライター打ちした複製を作ってくれたそうで、幸恵嬢、以後、毎日、この複本を校正して、そしてその最後のページを終えた時、そのまま、心臓麻痺を起こして死んだと。
・・・もう、これは「事実は小説より奇なり」なんてもんじゃない話。ドラマなら、こんなの書く脚本家は失格の烙印押されますよ。おそらく、彼女は、その5年間、執念にも似た思いで、食べる物も食べず、不眠不休でやっていたのでしょう。この話にはまだ、続きがあり、それから、6年後、今度は弟が一高入学のため出京。彼はそれまでアイヌ語を知らなかったが、以後、休暇で帰郷する毎にアイヌ語の調べをし、大学に入った頃から、毎日、一冊ずつ本にまとめ、さらにはそれを、伯母さんが口述で継ぎ足し、ようやく遺作は完成したと。
(小説家 池田平太郎)2022-03

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