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外食文化とはプロが作った料理を食べられるようになったということ

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(絵:吉田たつちか)

 料理のプロが現れたのはいつ頃でしょうか? 文明が始まり村や町が生まれると、そこに狩猟採集時代とは違い、いろいろなプロが現れてきます。大工仕事が得意な人は大工のプロに。土をこねてお皿や壺などを作ることが得意な人は、陶芸などのプロになっていきました。
 文明が発達すると支配者が生まれますが、支配者は料理の得意な者を雇い、彼らが料理のプロになっていきます。
 しかしプロの料理を食べることができるのは一部の支配者だけ。一般人は自分の家か、知り合いの家の家庭料理しか食べられません。やがてもっと文化・文明が発達してくると、外食というものがはじまります。
 日本だと江戸中期、フランスだとフランス革命後です。さてここで庶民の多くが、はじめて「プロが作った料理」を食べられるようになったのです。
 フランスの場合、フランス革命でこれまで王侯貴族に雇われていた料理人が失業し、パリの街にレストランが誕生することで庶民がプロの料理を食べられるようになりました。
 日本の場合ですと、江戸時代の初期にはまだ外食の文化はありませんでした。
 江戸の町に飲食店が出てくるのは、明暦3年に江戸の6割を焼いた『明暦の大火』という大火災のあとからと言われています。
 さて、明暦の大火によって焼け野原になった江戸復興のために、大工、とび職、左官屋といった職人たちが江戸に集まってきます。そのほとんどは若い独身男性たちでした。
 さてさて、この明暦の大火の時代までは、1日朝夕の2食というのが当時の食文化でしたが、若い肉体労働者たちは2食ではお腹が持ちません。かといってお昼ごはんのときにいちいち家に帰るわけにもいかない。朝お弁当を作るのも面倒だ。
 こういった人たちのために露天や屋台が出来て、食べ物を提供するようになり、彼らは朝昼夕と1日3回ごはんを食べるようになります。これが日本食文化の1日3食のはじまりです。
 そんな外食用の飲食店第1号は『浅草金竜山の奈良茶飯(ならちゃめし)』でした。茶飯とは、煮出した茶にいり大豆・小豆などを入れ、塩味で炊いた柔らかいご飯で、お店では汁ものや豆腐、煮豆などをセットに出した定食の原型のようなものだったようです。
 最初は労働者相手のファーストフードだった外食産業も、やがて時代が進むにつれ、会席料理などを食べさせ、幕府や各藩の外交など交渉や接待の場に使われるような高級料理屋も登場するようになります。いまでも政治家が、料亭などで会食・密談をするのは、この時代からの影響だとか。
 江戸時代を代表する料亭に『八百善』がありますが、この八百善にはホントかウソか、あるエピソードが伝わっています。 ある時、美食に飽きた通人が数名、八百善を訪れ、「極上の茶漬け」を注文したところ、その茶漬けがなかなかこない。半日ほどたってやっと来た。美味しかったのですが、値段を聞いて驚いた。なんと茶漬け一杯と香の物の値段が1両2分。いまの金額なら6万円くらいでしょうか。
 いくら高級料亭でもさすがに高いと、その理由を聞くと
「香の物は春には珍しい瓜と茄子を切り混ぜにしたもので、茶は玉露、米は越後の一粒選り、玉露に合わせる水はこの辺りのものはよくないので、早飛脚を仕立てて 玉川上水の水を汲みに行かせた。香の物は大した値段じゃないが、飛脚の代金が高くつきました」
というお話。
 明治・大正時代になると、洋食が入って来るなど外食にも多様化の波がやってきます。外食産業という言葉が使われるようになるのは1970年代から。この時代にファミリーレストラン・チェーンや、ファーストフードのチェーンが出て来て、家族や友だちとより気楽に外食ができるようになりました。
 外食は「家庭や自分で作らずにプロに作ってもらって、お金を払って食べる」ものです。それはいまも昔も贅沢なもの。しかし文化・文明が進むと、どんどん手軽にどんどん身近になってきました。
 外食で高級料理を楽しむもよし、ファミリー価格のものを気楽に楽しむもよし、たまにはそれぞれの贅沢をしてみるのもいいですね。
(巨椋修(おぐらおさむ):食文化研究家)23-11

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