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優秀な家臣がいても

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カラー5安芸(広島県)の小豪族の次男に生まれながら、一代で大内、尼子といった強敵を滅し、中国地方に覇権を確立した毛利元就。元就といえば、「自分亡き後、専守防衛に徹し、中央の覇権争いには首を突っ込むな」と言い残したという話がありますが、実際には元就は晩年になっても専守防衛どころか尚も拡大を志向しており、特に大内の遺領で未併呑であった北部九州は「何としても自分の目の黒いうちに」とばかりに関門海峡を越えて侵攻しています。
その元就を打ち負かし、九州から追い落としたのが、豊後(大分県)の大友宗麟。宗麟といえば、一時は九州を席巻する勢いを見せながら、慢心し新興宗教にのめり込み、格下のはずの龍造寺や島津に敗れ、最後は追い詰められた所を秀吉に救援された・・・ということで、どうしてもマイナー感が否めない武将かと思いますが、でも、あの!毛利元就を打ち負かした武将ですから、決して無能ではなく、むしろ開明的という部分では信長に通じるものさえあったでしょう。
で、この大友家ですが、実は「豊州二老」、あるいは「三老」とも呼ばれる重臣らに代表されるような、いずれ劣らぬ錚々たる有能な重臣らがおり、彼らの多くは下克上の時代にあって珍しく主家に忠節を尽くし、特に際立っているのが大友の家運が傾いてから。島津の万余の大軍の前にわずか763名で立ち塞がり大友武士の意地を見せて玉砕して果てた高橋紹運や、その子で、秀吉をして「東の本多忠勝、西の立花宗茂」と言わしめた立花宗茂。さらに、関ヶ原の折に黒田如水の手腕を知悉しながらも主君に殉じ憤死した吉弘統幸など、これでもかと言うほどに勇将、猛将が大友家の滅亡に花を添えています。(ちなみに統幸の父も叔父も曽祖父も主家の戦いで戦死しています。)この辺が名門の底力ということなのかもしれませんが、その意味では、大友家は本当に良き家臣に恵まれていたといえるのでしょう。(徳川家臣団は「忠誠無比の三河武士団」などと言われますが、あれは多分に家康の統率力あってのことで、事実、家康の父も祖父も家臣に殺されています。)でも、結局、ナポレオンが「1頭の狼に率いられた百頭の羊は、1匹の羊に率いられた百頭の狼に勝る」と喝破したように、哀しいかないくら家臣が良くてもトップがしっかりしてないとダメということで、大友家は秀吉の九州平定により辛うじて命脈を保つも、文禄の役で不始末を咎められ改易。さらに、再起を賭けた関ヶ原では負け組に付いてしまい流罪。その後、吉統の子、義乗が徳川家に旗本として召抱えられ、辛うじて名家として存続し得たと。

(小説家 池田平太郎/絵:そねたあゆみ)2016-03

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