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ニコニコ笑って没落

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(絵:吉田たつちか)

戦中戦後の難しい時期に、日本銀行総裁、大蔵(現財務)大臣を歴任した渋沢敬三は、本来、学者を志していた人ですが、祖父栄一から「銀行を継いでくれ」と懇願され、銀行家になりました。(生物学者でもあった昭和天皇とは談論風発、あまりに盛り上がったようで、敬三の退出後、天皇は「はて、渋沢の管轄は何であったか?」と聞かれたとか。)それだけに、民俗学に傾倒していたことから、実業の世界での栄達は本意ではなかったのですが、太平洋戦争開戦後の昭和17年(1942年)、46歳のとき、今度は日銀副総裁に就任します。(抵抗するも、東条英機首相からの「サーベルの音をガチャガチャ言わせて」の説得にやむなく受諾。)その後、総裁を経て、終戦直後の昭和20年(1945)、これも固辞したものの、妻の親戚・幣原喜重郎首相の説得を受け大蔵大臣に就任。望まぬ方向へ方向へとずれていく運命の皮肉ですね。
 ただ、敬三は破綻した経済を立て直すため、戦後の焼け跡の中、塗炭の苦しみに喘ぐ国民を、さらに丸裸にするような「財産税」の導入を実施。敬三は、後に「家が焼き討ちされることも覚悟した」と語っています。そこへ、占領軍GHQから澁澤同族株式会社に「財閥解体命令を下したが、やはり財閥には当たらなかったので、取り消してもいい」という通告があったそうですが、敬三は指定解除願は大蔵大臣宛に出すと聞き、「自分に出すなんて」と言ってこれを辞退。自邸を物納し、自らは、隣接の運転手の小屋に移り住みます。(敬三は民俗学の研究でいろいろな田舎に泊まった際、ノミやシラミがいても平気で寝られる人だったそうで、どうして?と聞かれると、「僕の家は元々百姓だよ」と言っていたとか。)
 敬三としては、「こんなタイミングで財閥指定解除願を出すことは、世間が承知せんだろう」という判断があったようで事実、同じく責任を取って退職した大蔵官僚が、都内に一戸建てを持っているだけで(当時は一戸建てが普通)、退職金の半分を「財産税」で持って行かれたそうですから、今なら、マンションに住んでいるだけで、特別固定資産税として、税金1千万円払えと言われたようなもの。これで、「渋沢は別の豪邸に移り住んだ」では国民は納得しないでしょう。
 本人は、「ニコニコ笑って没落、略して、ニコ没」と口では言っていたそうですが、なぜか、一人の時はトランプ占いをしきりにやっていたそうです。
その後、内閣総辞職により蔵相辞任(運転手組合から送別会をやってもらった唯一の大蔵大臣だとか。)、そのまま、公職追放となり、自ら庭を畑にして耕す日々となりますが、本人はこの頃が一番楽しかったとか。

(小説家 池田平太郎)2022-06

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