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三国志という読み物

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(絵:吉田たつちか)

 「三国志」。言わずと知れた中国の歴史書で、昨今では、ゲームから漫画、映画と、本家・中国の枠を飛び出して、もはや、世界中で認知されるまでになった観があります。ただ、一般に知られているそれは、魏・呉・蜀の三国が鼎立した三国時代から1000年以上経って、正史を面白おかしく脚色した「三国志演義」のほうで、正史について言えば、元々、三国滅亡後の晋の時代に、陳寿という人物が官撰の物とは別に、個人的に書いていた物があまりに出来が良かったため、その死後、これを筆写するよう勅命が下り、事実上の公認書物となったとか。(さらに、それから400年ほど経った唐の時代に、遂に、陳寿版三國志は正式に「正史」として認定されています。)
 で、この陳寿ですが、晋王朝に仕える役人でありながら、実は晋に滅ぼされた蜀王朝の出身で、つまり、彼は吸収合併された側の人間だったんですね。(名軍師・諸葛亮孔明が五丈原で没したとき、満1歳。つまり、彼は母国の凋落を目の当たりにしながら成長したということ。)したがって、彼は三国の中では最小国だった母国・「蜀」に同情的に三國志を描いたわけですが、一方で、彼が仕えた「晋」は、三国の中で最大だった「魏」王朝の部将一族が魏帝から帝位を簒奪して成立した王朝であり、晋帝からすれば、魏をあまりよく描かれても困るが、と言って、晋に悪いことを書かれても困る。陳寿自身、晋に仕える身でもあれば、晋への配慮から、書けないことも多かったようで、内容も必要最低限、割合、簡潔であったようです。
 そこで、陳寿から100年ほど後、南朝「宋」の文帝が裴松之という人に命じ、正史の注釈を作らせます。完成した物は文帝が「これは不朽となるだろう」と絶賛したほどの出来で、確かに、正史そのものよりもこの注釈の方が面白く、これがなければ、後の三国志演義、引いては、現在の三国志ブームもなかったでしょう。ただ、裴その人は、陳寿と違い、宋成立前は晋王朝の亡命政権である東晋王朝に仕えていたという経歴もあって、陳寿のように「蜀」中心史観に縛られなければならぬ義理はなく、そのため、あくまで、魏を中心とした立場でこれを記しています。が、しかし、物語となれば、やはり、最弱「蜀」の劉備、諸葛亮コンビが最強「魏」の曹操に敢然と戦いを挑む方が盛り上がるわけで、結局、現代の蜀中心の物語へと発展するわけです。
ちなみに、吉川幸次郎元京大名誉教授は、昭和49年の年賀状に、「現代の人民共和国は魏で、台湾は蜀、日本は呉。長江は東シナ海」と書いたとか。なるほど、当時の長江はちょうど今の東シナ海のような感覚だったんでしょうね。   

(小説家 池田平太郎)2023-07

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