(絵:吉田たつちか)
古代エジプトに「文明」が芽生えたのは、紀元前五千年頃のことと言われる。が、古代エジプトがアッシリア帝国に征服され、「終わり」が始まった紀元前663年は、中国の歴史では春秋時代初期。すなわち、中国史が本格的に動き出した時期に当たる。
少し極端に言うと、「中国が始まったときには古代エジプトは終わっていた」とも言えるのである。(古代エジプト人からすれば、ローマやギリシャが「古代」を称するなど噴飯ものであろう。)事実、始皇帝により中国が初めて統一されたときには、古代エジプトはペルシア帝国によって属州の一つとされ、完全に終焉を迎えてから、既に100年が経った後。(当時は、そのペルシア帝国を滅ぼしたアレクサンドロス大王の部将の一人が、大王没後に、エジプト王として即位したプトレマイオス朝の時代。つまり、エジプト王と言いながら、ギリシャ人だったということ。有名なエジプト最後の女王クレオパトラはその末裔。彼女の死によって、古代エジプトは終わったように思われているが、実際にはその300年も前に、既に終わっていたということ。)
ペルシア帝国により、エジプト人の王朝が完全に終焉を迎えたのが紀元前343年で、次に、エジプトにエジプト人の国が成立するのは1953年のエジプト共和国。つまり、その間、エジプトは実に、2,300年の長きに渡って異民族の支配下にあったということになる。(日本は、実在が確認されていない第6代孝安天皇の時代。もはや、神話の時代である。)
古代エジプトの統一王朝の首都は、短期間のものを除くと、最初はギザのピラミッドに近いメンフィスに、途中から、ナイル川中流域のテーベに置かれた。が、なぜ、メンフィスなどと、現代のアメリカにある都市と同じ名前なのか。実は、これらはすべて、先述したプトレマイオス王朝時代のギリシャ語の呼び名なのである。(メンフィスは古代エジプト語では「イネブ・ヘジ」、同じく、テーベは「ワセト」。)
同様に、ミイラも、ピラミッドも、スフィンクスも、パピルスも、ファラオも、ナイルも、さらには、エジプトでさえもエジプト語ではない。(そもそも、エジプトには川はナイル川しかないのだから、川は「川」で、わざわざ、名前を付けて区別しなければならない必要が無いわけで。ちなみに、古代エジプト人にとって、川とは南から北に流れるものだった。メソポタミアに遠征して、初めて、北から南に流れるユーフラテス川を見たときには、説明に困ったとか。)つまり、これほどの長きに渡って、異民族の支配を受けて来た結果、エジプトではエジプトが消えてしまっているということ。
(小説家 池田平太郎)2024-2